「私が誰かを切実に頼ったとき」
それは今だ。誰かを頼っていいなら、そう教えてほしかった。
幼い頃から勉強もスポーツもそれなりに。その全ては今の私につながる
私は幼いころから勉強もスポーツもそれなりにやってきた。その全ては今の私につながっている。
幼稚園時代は兄と一緒に英語教室に通っていた。
「わからないことがあったら何でも聞いていいから、宿題をしなさい」
と怒られ、しぶしぶ手をつけるも一問目からわからない。母に聞くと、
「そんな問題もわからないのか、何がわからないのか、なんでわからないのか」
と責め立てられた。幼い私は泣いて謝っていた。
小学校、中学校では授業で当てられて、
「わかりません」
と答えると周りのみんなから笑われた。二度と笑われないようにと、苦手な教科があっても努力して予習復習を欠かさず行った。それでも間違ってしまったときには教師から、
「こんな問題も分からないんじゃちょっとねぇ、第一志望の学校に行けないよ」
と授業中に言われた。
悔しくて、見返したくて、私はまた努力して第一志望の高校に受かった。高校生にもなると、わからないと言っても笑う人は少なくなった。むしろ笑う人のほうが嫌がられる始末だ。だったら、と私は苦手な教科の勉強を一切しなかった。授業中は寝て、宿題にも手を付けない。わからないと言えば流されるだけ。でも、解き方を教えてくれるような優しい人も周りにはいなかった。
ミスした理由を自分で考えて、生まれたのはチームの得点ではなく後悔
さらに、部活動のバレーボールでは、「自分がミスしたんだから、何がダメだったのか自分で考えろ」と何度も言われた。
私一人のミスが、チームのミスにつながる。その責任感から、どんなに小さなミスでも私は自分で考え直すようにしていた。
だが、できなかった理由を考えても、プレーは上手くならなかった。あの試合でこうしていれば、チームメイトにあんな声をかけていれば。考えて生まれたのはチームの得点ではなく、後悔だった。
そして、高校時代に勉強で何も努力をしなかった私は、第一志望の大学に入れなかった。情けないと泣く母。就活だけは成功させようと思い、周りより早く準備を進めた。「わかりません」は通用しない。自分のことを話すのだから。友だちの内定報告とともに増える私宛てのお祈りメール。誰にも頼れない面接の空間。全てに押しつぶされそうでも、笑って質問に答えた。心がすり減った私は、自分のことも頼りないと感じた。
人に助けを求め、頼ることが許されるなら、もっと早く知りたかった
それでもなんとか、社会人になることができた。社会人になって一番言われる言葉。
「わからないことがあったらすぐに言ってね、それでミスをすることが一番だめだから。先輩を頼ってね」
でも、私は何も質問ができない、頼れない。そのせいで何度もミスをしている。最近は、可愛げがない、と先輩たちと距離を感じることも多い。それが原因で気が沈んで、辞めてしまいたいと思うことだって何度もある。あの頃わからなかった英語の問題はわかるようになったのに、わからないと言える純粋で愛おしい私はいなくなってしまった。
「わからない」「できない」と人に助けを求め、頼ること。それが許されるなら、もっと早く知りたかった。
これまで私がその言葉たちを口にすると、呆れた顔をしたじゃないか。私は今になって気付いた。
教えてほしかったのは英語の問題の答えでも、バレーボールでミスをした理由でもない。
誰か、誰か、教えてくれないか、頼り方を。
私が頼れる「誰か」って誰だ。わからないんだ。