旅が好きだ。
とは言っても、時間はあれど金はない大学生。旅に出られるのは年に一回程度。
その貴重な一回の目的地は、今のところ全て京都だ。

京都の不思議な空気感は、何者でもない自分を認めてくれる

私は関東平野のちょうど終わりあたり、山の裾野の生まれで、現在もそこで暮らしている。
車がなければコンビニにも行けないような土地で、親と車をシェアする私には、「好きなときに好きなところへ行ける」自由がとても尊く、憧れの対象だ。

だが旅は違う。
一度旅に出てしまえば、あとはどこで何をしようが全くの自由。
だけど京都へ行く理由は、自由を求めてではない。
なにより、「何者でもない自分を認めてくれる」からだ。

認める、とは違うかもしれない。
京都を流れる時間は不思議だと思う。平気で昨日できた建物と千年くらい前のものが共存している。

そこに在る理由を必要とせずに、ただ、在る。
私はあるひと時の、京都にとってはほんの瞬きの間くらいの旅人でしかなくて、在る理由を必要とされていないように感じる。
そんな不思議な空気感が、私の足を京都へ向けさせるのかもしれない。

私は多分、ずっと何者にもなれない私を認めてほしいのだ。

田舎では光の速さで「噂」が伝わる。中学に落ちた私の情報も同じで…

田舎は情報が伝わるのが早い。新聞に載るよりもはやく、人から人へとニュースが伝わる。
そのニュースは大小さまざまだ。
やれイノシシが畑に出た、やれ隣の家が犬を飼った、やれ今年は白菜の値が高い……。
そんな中でも光の速さで洪水のごとく広まるのが、人に関することだ。

サトウさんがどこそこの老人ホームへ入っただの、コバヤシさんちの旦那が部長に出世しただの、とにかく細かく伝わる。
私の住んでいる地区は子どもが少ないこともあってか、私のニュースも流れた。

私は中学受験に失敗している。

通っていた小学校から中学受験をする人は十年にひとりいるかいないかで、かなり注目されていたらしい。
希望の公立校に落ちて滑り止めの私立に受かったと学校に伝えると、翌日にはかなりの広範囲に伝わっていた。
「中学受験に落ちた、賢くない私」が地域に大々的に喧伝されてしまったのだ。
高校受験はせずにエスカレーター式に進学し、今度こそと思った大学受験も失敗。一番下の滑り止め一学部しか受からなかった。
大学院は受験して今度こそ有名一流大学の肩書きを手に入れようと思うも、コロナ禍による影響を考えてまた内部進学。

何者でもない私を、京都は気にもかけず、何も言わないでいてくれる

bestを一度も取れずに、betterだけの人生だ。
“私立〇〇中学に通う私”も、“MARCHより下、日東駒専より上の大学生の私”も、どれも求めていた“自分”ではなくて。
どうしようもなく空虚で諦めた何者でもない私でも、京都という街はなにも言わないでいてくれる。気にかけることさえない。

ただ在り、来ては去っていくものなだけ。
その認識が、すり減った心をじんわりと温めてくれる。

何者でもない私は、何者でもない私を受け入れてくれるまちへ行くために、京都へ旅に出る。