毎日変わらないルーティーンに、どこまでが自分なのか分からなくなる

自分の身体の境界線が曖昧になる。

5時30分、赤ちゃんに叩き起こされる。7時、準備した朝食を食べさせる。8時30分、在宅勤務のパパが書斎へ。10時、おやつのバナナの皮を剥く。10時30分、公園へ。12時、子どもとパパのお昼を用意する。13時、お昼寝に入った子どもを見ながら束の間の休息。15時、起きがけに泣く赤ちゃんを宥めながらおやつを食べさせる。17時30分、夜ご飯の支度。18時、子どもの食事補助をしつつ、戻ってきたパパと今日の出来事を報告し合う。19時、お風呂。20時、寝かしつけと共に私も寝落ち。幸い、起きていられたときは細々とした家事をする。

平日休日問わず繰り返されるルーティーン。見慣れた物に囲まれて、舌に馴染む手料理を食べて。
いつのまにか、どこまでが自分なのかよく分からなくなってくる。たゆたうような緩い空気と同一になり、生きてはいるが、自己をどこかにやってしまう。

ここではないどこかで私は異物になり、私は私の輪郭を再確認

だから時折、旅に出る。ここではないどこかなら、私は異物になれるから。例えば、どこまでも広がる海を眼前にアイスキャンディーを齧ったり、熱く塩辛い温泉を堪能したあと地ビールを流し込んだり。いっそ海外へ行って、得体の知れない郷土料理を食べるのもいい。

そうやって、私の形を再認識するのだ。楽しい、きれい、美味しいといった感情を元にして。
今までで一番、自己がクリアになったのは、山に登ってテント泊をしたとき。入籍したばかりの夫とふたり、北アルプスの涸沢へ紅葉を見に行った。朝、日が上らないうちから歩き始め、夕方になる前には木々が色鮮やかな目的地へ。赤、橙、黄、どこへ目を向けても色づいた葉が美しい。売店で買ったおでんとビールで乾杯した。

山は夜になると、途端に気温が下がる。ぎりぎり氷点下にならないくらいの中、防寒具を着込みテント前で、リュックに忍ばせておいた赤ワインを火にかけた。小分けにして持ってきたブルーベリージャムを入れる。それをふたりで見守る。ふつふつしたらカップへ注ぐ。粗挽き胡椒をひとつまみで完成。
熱く甘いアルコールが胃に落ちて、吐く息が白い。真っ暗な空に星。冷えた空気は、ほとんど肌を切り裂くよう。
自分の輪郭がはっきりと感じられた。外も中も。ついでに隣に座る夫も。一杯のホットワインをゆっくり飲む間に交わした言葉は些細なものだった。だけど、それくらいがちょうど良かった。

コロナ禍で上手く息抜きできない今、いつもと違う、を用意して生きる

……と、コロナ禍になる前なら上手く息抜きができたのだろう。しかし、残念なことに未だ事態は収束していない。
旅行という大きなリセット方法を失い、ただでさえ幼児との生活で自己をなかなか労われないのに何事も自粛になり。
どうにかしないとどうかなりそうだったので、プチ旅行をすることにした。大層なことではない。いつもと違う、を用意するだけだから。

足を伸ばして、普段行かない大きな公園へ。勇ましくよちよち歩く息子を眺め、彼がもう少し大きくなったら一緒に旅行しよう、とそのときのことを空想する。
話題になった、オーストリアのザッハトルテをお取り寄せ。砂糖のように甘いチョコレートとスポンジ、アクセントのアプリコットジャム。本場の食べ方に倣い、無糖の生クリームを泡立てて添えた。日本のお菓子とは、また違った味わい。
こうしてだましだまし、生きている。十分楽しいが、やっぱり本物には及ばない。気兼ねなく旅行できるように早くなって欲しい、と心の底から祈っている。