私は果物の皮を剥く時間が好きだ。

人数分に分けることをイメージしながら、果物に刃を沿わせる。息子達は、そんな私の手元の動きを、じっと凝視している。
もしも今の私が一人暮らしだったとしたら、こんな時間を味わうことは無かっただろう。または実家で暮らしていたとしても、頻繁に自分で果物の皮を剥く事は無かったと思う。

長男が果物を選び、私はナイフとまな板を。今日も解体ショーが始まる

我が家には祖母から譲り受けた、切り込み模様の美しいガラスの大きな器がある。それは廊下の棚の上、涼しい場所に置かれている。そして私はその器の上に、バナナやミカンなど、常に数種類の果物を絶やさない様に並べている。

食後に頂く果物を選ぶのは、大抵長男の役割だ(真っ先に食事を終えるから)。私が「一番美味しそうなの取ってきて」と言うと、彼はその器から人数分、熟れた果物を見繕ってきて、食卓まで運んでくれる。私は果物ナイフとまな板を用意し、未だにゆっくりと食事をしている次男の隣で、果物の解体ショーを始める。

今日はリンゴだ。とても大きくて立派。ヘタの辺りに刃を軽く差し入れて、しゅるりしゅるりとリンゴを回転させていく。

3度目の妊娠を機にスーパーの個人宅配を利用するようになってから、リンゴを食べる頻度が増えた。私がまとめて購入するのは、少し傷の入った、しかし蜜がたっぷりと入っている物。

リンゴの場合は8等分にして、子ども達に3切れずつ、私には2切れというパターンが多い。しかし今日のリンゴはあまりにも立派だ。12等分にして、公平に4切れずつにしようかな。

家族のために果物の皮を剥いている時は、脳が休むことを許された時間

私が果物を剥いている時、頭で考えているのはその程度の事だ。もはやそんな事すら考えず、ただただ無になっている時もある。

「女性は脳の構造上、色んな事を一度に考えるのが得意だ」だとかいう説も聞いた事がある。しかし性別を問わず、果物の皮を剥いている時ばかりは誰しも、大した事は考えていないと思う。うっかり考え事に気を取られたならば、指の皮まで剥いてしまいかねない。

いつもは家事や育児など、常に数手先まで考えて暮らしている私にとって、家族のために果物の皮を剥いている時だけは、脳が休むことを許された時間である。

そんな脳が無になる様な感覚は、例えば写経だとか、茶道や華道、ヨガなんかにも近いのかもしれない。何かに集中していると雑念が消えるという感覚は恐らく珍しくもないが、私はそれを、果物の皮を剥く時に覚える。

そして皮を剥き終わり、切り分けた後。脳はまた通常営業を再開し、いくつもの事を同時に思考し始める。その時私は息子達と一緒に、甘いリンゴをしゃりしゃりと噛っている。

妻、主婦、母である日常に密接にめり込むささやかなルーティーン

果物の皮を剥くという行為は、妻であり、主婦であり、母である私の日常に、密接にめり込んでいる。飽きっぽい私が既に数年続けている、日常のささやかなルーティーンだ。

私は子どもや旦那のために果物を常備するようにしているが、実家の母もそうしてくれていた。私が幼い頃。実家の食卓でも母がリンゴを剥き、私はしゃりしゃりとリンゴをかじっていた。そんな事を今、思い出す。

実家を出てから気付いたのだけれど、果物って、安くない。ぶっちゃけ、高い。息子達はまだまだ小さいけれど、今後育ち盛りになったら我が家のエンゲル係数はどうなるのかと若干不安にもなる。

それでも我が家では可能な限り、ガラスの器に果物を乗せて、息子達の前で果物の解体ショーを披露する、そんな日常を、私はこれからも送りたいと思っている。