「昔は可愛かったのにね」
友人たちは私を見ながら口を揃えて言う。
そして私は何十回と同じ言葉を繰り返す。
「昔は可愛かったんだけどね」

ひとりで何もできなかった私はたった1年で「ひとりを愛す」人間に

こんなにも人間は変わってしまうのか。
自分でも驚くほどに、この1年で変わってしまった。
1人では何も出来ない人間だった。
駅から家まで歩くのも、固い瓶の蓋を開けるのも、1人でレストランに入るのも。
むしろある種の病気なのでは?というほどに、人にべったりで、1人の時はお風呂とトイレの時間だけ。

そんな私がどうしたことか、1人を愛しすぎる人間に見事な変貌を遂げた。
もちろん家では1人で過ごす。
そしてご飯どころか入場料を払って観に行くような観光スポットへも1人で向かい、またひとり、家で過ごすのだ。
そんな家への引っ越しもまた、1人でやった。
荷造りも、手続きも、重い荷物を運ぶのも。
それだけではない。

時代に逆らえず打ったワクチンの副作用で1週間近く寝込んだ時も、誰にも頼らなかった。
逆算して食材や飲み物を揃え、予想通り襲いかかってきた高熱や吐き気なんかにじっと耐えた。
多少嫌な気分のことがあっても、自分で機嫌をとって消化したし、大体のことは寝て忘れるという特技を身につけた。

人間の心を失った私の心があげた悲鳴で気づいた頼ることの難しさ

「もう1人で生きていける」
そう友人たちに話す言葉通り、ありとあらゆることを1人で超えてきたし、1人で超えれるようになると逆に誰かといる必要性を感じなくなり、結果として孤独を愛する人間かのようになってしまった。
「人に会うのが面倒臭い」というのが正直な話なのだけれど。

そんなこんなで人間の心を失った私は、去年1年は1人で生きてきたし、このまま1人で生きていけると思っていた。
ところが、秋もだんだん近くなるある日のこと。

急に心が悲鳴を上げ出した。
大きなストレスを与えられたわけでも、体の調子が悪かったわけでもなく、何の理由もなく突然に。
普段なら全く気にならない人からの言葉や、自分に対する劣等感。ひとりでいる寂しさ。
そんなものがいつもの何十倍にもなって私に襲いかかってきた。
けれども、完全おひとりさまモードに突入してしまった私は、今まで誰かに頼っていたことが嘘のように頼ることができなくなっていた。

まず、誰に頼ればいいのか分からない。
頼れそうな10人ほどは何となく浮かぶけれど、そこから選ぶことが出来ず、一旦保留。
それでも悲鳴を上げる心を助けるべく、再度誰かに助けを求めようとするが、今度は自分が相談したいのか、遊んで発散したいのか分からず再び保留。
それでもやっぱり寂しい苦しい心を消化しきれず誰かを誘おうとするも、今日誘って迷惑でないか、それなら1週間後に予定を組んだほうがいいのか、なんてことを考えてしまい、「あれ、誰かに頼ることってこんなに難しかったっけ?」そう思いながら、ついに限界を迎えた私が選んだのは、私のことをよく知らない親子ほど歳の離れた常連のおじさんだった。

やっぱり人間はひとりでは生きられないし、寂しさは突然訪れるもの

「少し時間いいですか?」
その一言に始まり1時間ほど。
自分の心のモヤモヤや、どうしてそれに悩んだいるかすら分からないこと。
こんなことを話しながらもこの後どうして欲しいのかも分からないこと。
心の中を全てぶちまけた。

おじさんは当たり障りなく、
「まあ無理はしないで、何かあればいつでも話しにおいで」
そう言ってその場を切り上げた。
その瞬間、急に肩の荷が降りた気がした。
何も背負っていなかったはずなのに、何も抱えていなかったはずなのに、人に悩みを相談すると、その人が荷物を全て持っていってくれたような感覚になる。

結局話を聞いてもらったことにより、私の心は急激に晴れ、そこから再びおひとりさまモードに戻ってしまった。
けれど、やはり人間は1人で生きられないのだとその時に痛感したし、その瞬間は何の理由も前触れもなく突如やってくるのだと学んだ。
どれだけ強くなっても、どれだけ大人になっても、結局人は人に頼らず生きていくことは出来ない。