「愛している」と言って返してくれる人間が、この世界にどれだけいるだろうか。 それを考えると私はぞっとして、思考の糸をブチッと切ってしまう。そうしてしまえば先に進むことはなく、答えを知らずにいることができる。 現実を受け止めていないといわれてしまうと返す言葉がないのだが、それでもどうにかして逃げてしまう。そうしなければとても今日と同じように明日を迎えることはできない。

世界から見放されているとか、自分には誰もいないとか、そういうわけではないのだ。
しかし、私の人生において「愛している」と言ってくれる存在を作ることは必要なのかもしれない。

「一緒」が多数派の世の中で、「おひとりさま」の言葉は甘く響いた

中学・高校時代は上手く馴染めず、一人でいることも多かった。それは苦痛ではないものの、集団生活が基本の学校生活では悪いことをしているように感じる。

そんな私にとって、おひとりさまという言葉は甘く響いた。自分の性質に合っているし、そのうえ世間体までも得られると都合がよかったのだ。

制限は自分のスケジュールだけで、舞台のはしごや、美術館のあとに遠回りして話題のカフェに寄るなどやりたいことが全部できるという充実感があり、気分が乗らなければやめられる気楽さに、以前の私はおひとりさまに文句なしの賛同していた。

世の中は誰かといる人のほうが多数派であるから、ひとりでいることはなんとなく気まずさや孤独感を感じることも多い。コロナ禍をきっかけにおひとりさまが普及して、当たり前のスタイルになることを期待していたのだ。

そして近年は多様なライフスタイルを認めようという動きもある。まだ一般的ではないが、家庭に入り子供を育てるだけが女の幸せではないという考えは周知されつつあり、各業界の第一線で活躍されている方も多い。彼女たちは憧れであった。結婚だけがすべてでないならば、恋人がいない人生に対して悲観せず、やりたいことに夢中になれる。家庭を持たない人生も良いと思うようになった。

今、私を愛してくれている人たちは、いつかいなくなってしまうのだ

私にこれまで恋人はいない。だがきっと両親は私に「愛している」と言ってくれるだろう。親戚筋で当たれば、曾祖母の4人も大丈夫ではないかと思う。
計6人、十分ではないか。そう感じる方もおられるだろう。少し前までは私もそれに同意であった。

しかし私は知ってしまった。人は老いることを、いつかはいなくなってしまうことを実感したのだ。

昨年の6月頃、祖父の認知症が発覚した。以前から物忘れはあったのだが、それが酷くなり、人様に迷惑をかけるようになったと祖母が外来に連れて行ったのがきっかけだ。診断によるとまだ軽度で、進行を遅らせる薬を処方されたと話を聞いたのが、同月の終わりだったと記憶している。

そのことに驚きはなく、診断があればこれから安心だと思っていたのだ。
だが、9月になると祖父は文字が書けなかった(書けなくなっていた?)。どこになにを使ってどう書けばよいかがわからないとのことだ。認知症の診断からいざという時のために銀行などの手続きを始めたばかりだったのだが、枠に文字を収めたり、番号を写したりということがまるでできなかった。

その父とその場面に直面したのだが、顔を見合わせたものの言葉が出なかった。祖父が席を外した際、祖母は「少し前から私が代わりに書いている」とこっそり話した。 

「おひとりさま」に憧れる私。でも、将来を考えると怖くなる

それから夏季休暇から2週間に一度のペースで会っているが、年明けのいまでは、会話も危なくなっている。言葉の理解が難しいようで、発言を処理して言葉を返すまで5分程度時間がかかっている。祖母と父が根気強く対応している隣で私はものすごく怖くなった。老いて最期を迎えることは当然知っているが、それを自分のことと実感したのだ。

コロナ禍の現在、おひとりさまに対する注目度が高まっており、おひとりさまの私は大変喜ばしいこととして期待していた。しかし、祖父の老いる姿を目の当たりにしてしまうと、考えなしにおひとりさまで良いとは言えない。祖父には支えてくれる妻や息子がいるわけだが、ひとりを選んだ私には誰もいない。

私を「愛している」と言った人たちは先に逝ってしまう。仲の良い友人も同じく歳をとっているし、優先すべき大事な人がきっといるだろう。そうなると私は独りぼっちになってしまう。自分が寂しいだけなら仕方ないが、人は老いると誰かの支えなしには生きることすら難しくなる。

私は決しておひとりさまを否定しているわけではない。憧れすらある。
ただ私はそう生きる覚悟がまだない。ひとりには耐えきれない時がくるだろうと心配でたまらないのだ。だからおひとりさまを愛しつつも、時々我に返って、「愛している」と言って返してくれる人がこの世界にどれだけいるだろうか、と頭によぎって恐怖でいっぱいになってしまうのだ。

生き方を見つけるために、愛してると言い合える存在を探してみる

人生にしっかり向き合って様々な可能性を考え、自分の道を定めた結果、選んだのがおひとりさまであるならば、生き方の一つとして評価されるべきである。

しかし、私がしてきたおひとりさまは、見たくないものをごまかしただけの現実逃避に過ぎない。ごまかしをやめて人生に向き合わないといけない。

大人になればなるほど、背負うものも抱えるものも大きく重くなる。それを一人で支えられるのだろうか。しっかりと考えられていない私に、おひとりさまでいることを手放しに推奨することはできない。自分の空想だけでなく、誰かに向き合わねばならない。

一度でも「愛している」と言ってくれる人を探すことは決して馬鹿げたことではない。人生を考える大事な一つだ。諦めてはいけない。都合の良いことに逃げず、「愛している」と言い合える存在を作ることは、作る努力をすることは、自分にとっての生き方を見つけるためにもやってみないといけないことなのかもしれないと、思うようになったのだ。