12月11日。
私は27歳の誕生日を迎えたこの日、家族を裏切ってでも一人暮らしすることを決意した。

弟の介護ストレスで感じる人生の悲しみや鬱憤を、書くことにぶつける

私には障害のある弟がいる。
話すことも、自分で食事することも歩くこともできない。
両親と3人の兄弟で、私たちは子供の頃から弟の介護をしてきた。
オムツを替えてやり、食事を口に運び、お風呂にも連れて行く。バギーに乗せて時々散歩させてやる。子供の頃からずっとやってきた介護はもはや習慣になっていた。
しかし、弟の身長や体重の成長に最近は両親も私たち兄弟も介護が難しくなってきていた。今までは下の兄弟の世話程度のものが、だんだん介護の厳しさに直面するようになってきていた。
妹の身長を超えてしまった弟を抱っこしてお風呂に連れて行く時には、弟の足に足を取られそうになるし、何より重くて持ちづらい。オムツを交換するにも、もう18歳の弟の下の世話をするのはなんだか気まずい。

私には夢がある。それは脚本家になることだ。
私は書くことが好きで、弟の介護のストレスや弟の存在によって狭まったように感じる自分の人生への悲しみや鬱憤をぶつけてきた。そうしている時だけは私は自由を感じられた。
脚本家になるためにコンクールへの出品を続けているが、いまだ結果は出ない。シナリオを学ぶ学校や教室に通いたいと思っても、東北の田舎では難しい。

弟は家族だけど、好きなように自分だけの面倒を見る喜びも知りたい

だから私は都会で一人暮らしをしてみたかった。それは今まで弟の世話で家を離れることのできなかった反動でもある。
弟は家族だ。しかし私は自分の人生を狭められたくなかった。自分1人だけの面倒を見る喜びを知りたかった。何もかも自分の好きなようにしてみたかった。
弟のお風呂の時間に合わせて帰宅したり、弟の水分補給やオムツ交換のために目を配る名もない時間、弟の病院の付き添いのために自分の時間を犠牲にすることもない生活を味わってみたかった。

昨今、少子高齢化で介護問題が浮き彫りになってきている。精神的にも肉体的にも大きな負担に追い詰められ、殺人や心中に発展してしまうことも少なくない。そんなニュースを見るたびにうちも他人事ではない、と恐怖を感じる。
核家族化、少子高齢化によって介護問題は若い世代にも差し迫った問題のように感じられる。自分の祖父母、また両親の介護のことを考えて厭世的になる若者は多いと思う。そこには不景気や重税で手取りの少ないことも関係している。

自分の人生への挑戦したい気持ちと、家族への裏切ることへの板挟みに

今は若者にとって苦しい時代だ。今の若者はコロナもあり、青春を謳歌できていない世代だと思う。

私はそんな社会の犠牲者になりたくなかった。自分の人生へのコントロールを失いたくない。若い時を他人のために使いたくない。自分の人生がどんなものなのか挑戦を通して知ってみたい。弟の介護や今日も変わらない田舎町の景色を見るたびに私は強くそう思う。
しかし、家族を裏切ることとの板挟みで、私はここ1ヶ月ほど体調を崩してしまった。

そんな時に観た『下妻物語』という映画のセリフが私のプレッシャーを和らげてくれた。
「人間は幸せを前にすると急に臆病になる。幸せを勝ち取ることは、不幸に耐えることより勇気がいるの」

私はいつまでも家族みんなで不幸でいるのは嫌だった。私の家族は毎日明るく過ごして見ないふりをしているが、兄弟3人が20代になり結婚や子供、仕事のことを真剣に考えなければいけない年齢だ。
みんながいつまでも実家暮らしをして弟の世話をしていられるわけではない。両親も肉体的に介護が厳しくなってきている。弟を施設に預ける、という選択肢も検討しなければならない。

私は私を生きるために、家族に憎まれても一人暮らしをする

介護問題にみんなが幸せになれる結末というものはない。みんなで不幸になるわけにもいかない。精神的肉体的金銭的に限界がある限り、日本のほとんどの家庭が今後苦しむことになる問題だ。美しい物語でも善悪だけで割り切れるものでもない。これは悲しい現実の話なのだ。

私はそのことを27歳の誕生日にひしひしと感じた。だからと言って私が夢を諦めたり、自分の人生をどうにもしなくていいわけではない。私は私を生きたい。そのために、私は家族に憎まれても一人暮らしをするつもりだ。