いい子でいることが、自分にとっても面白くないと気づいた

私は横浜生まれの横浜育ち、5人姉弟の4番目に生まれた。
年の離れた長女と、優しかった長兄とは喧嘩をすることもなかったが、年の近い姉と弟とは手や足や、物が飛び交うほどの喧嘩をした。
反面、外に出ると人の目が気になる質だった。怒られないように、嫌な人と思われないように、余計なことを言わないようにと必死だった。
典型的な内弁慶である。

そんなこんなで20歳になった頃、いい子でいることが他人にとっても自分にとっても面白くないということに気づき、溜め込んでいたストレスが暴走した。

12月、箱根の山を越え、祖母のいる神戸へむかった。原付バイクで。
携帯も持たず、バイトも無断で休み、母にだけ行き先を伝え家を出た。
手袋を二重にしていてもかじかむ手、寒さで奥歯がカチカチとなり、排気ガスで真っ赤になる目、途中道に迷い泊まるところも見つからず不安な時もあった。

それでも戻りたいとは思えなかった。家賃を払わなくなったルームシェア友達がいる家や、人の目を気にして働くバイトよりも、原付にしがみついている方がずっと安心した。

鈍行で帰路につき、車内で考えた。家についてからは直ぐ行動

10日ほどかけてようやく目的地に到着すると、祖母の家には心配して来ていた母の姿もあった。
当然、祖母も母も私を叱った。それでもまだ横浜に帰りたいとは思えず、しばらく神戸で過ごしたあと、少しでもゆっくりと帰るため鈍行で帰路についた。
戦友と言っても過言ではない原付は、母の説得に渋々従い、業者に頼み配送してもらった。

電車に乗っている時間、何もやることがないので原付に乗っていたときのことを思い返した。
どこをどう曲がってもたどり着いてしまう金閣寺に涙目になったり、大きいトラックがスピードを出す細い海沿いの道路はどこだったか、死ぬかもしれないと必死でハンドルを握ったこと。
レインコートがもこもこになるほど着込み、目を充血させた女がネットカフェに泊まる姿は客観的に考えるととても異様だっただろう。

しかし、人の目よりも、温かいところで休みたいという気持ちが勝っていた事に気が付いた。
それに気づいてようやく、ピンと貼っていた糸が緩んだ気がした。
一度行ってみたいと思っていた伊勢神宮に寄り、神様に気を遣い端を歩く人たちと、気を使わずか、知らないのか、ズンズンと楽しそうに鳥居のど真ん中を歩く同じ年代の人をぼんやりとあるきながら見ていた。

そんなこんなで、家についてからは直ぐに行動ができた。
バイト先に謝りに行き辞めさせてもらい、ルームシェアの友達には1ヶ月後に部屋を解約する事を伝え、次のバイトを探した。

以前ほど人の目が気にならなくなり、幸せな人生を手に入れられた

それから3年後、沖縄の専門学校に行き、沖縄の離島に就職、出会いがあり今年結婚した。
主人とは付き合った当初から半同棲、家賃は貰わず1年過ごしたが、あの時と同じじゃないかと思い出し、家賃払わないなら別れる、結婚する気がなくても別れる、子供作る気もないなら別れると話し、2年の付き合いの後、結婚した。

就職した会社では待遇が悪く、同僚10名ほどと副社長に直談判に行ったりもしたが、コロナ禍で待遇は更に悪くなり退職。

現在は国家資格を取り、フルタイムで働いたあとスーパーでバイトをしている。
以前ほど人の目が気にならなくなり、忙しいながらも幸せな人生を手に入れられたと思う。
あの経験をするまでの自分には絶対にできなかった事が沢山ある。

言いたいことも言えなかった自分を変えたきっかけは旅であり、出会いがあったのも旅、きっとこれから先も行ったことのない土地で何かを得られる気がする。
だから私には、まだ旅が必要なのだ。