私の年越しは極寒の中だった。友人の家の庭で焚き火をして、マシュマロを焼きながら縮こまって震えていたところに「あと2分やん」と誰かが呟いて、何かが変わることもなく呆気なく年を越した。

また何も成し遂げないまま1年が終わってしまった。真っ先にそう思った。
それは私の心の奥に小さなしこりとなって、一箇所だけぷくりと膨らんでいる。どうしよう、という何に対してかは分からない漠然とした虚無感と不安感が凝り固まって、私はそれから上手く笑えているのかわからない。

もうすぐ大学を卒業。やりたかったことの半分もできていない気がする

決して長くはない若さを手にしている年代でありながら、何もかもを不安に思って足踏みしているうちに何も出来ずに終わってしまった。私はこの3月で大学を卒業してしまうのに、やりたかった事の半分もできていないような気がする。

言い訳は容易い。コロナ禍だったから。深く仲良くない人ならそれで流してくれるだろう。でも、私は私のことをよく知っていると思い込んでいるから、もっときっと出来たよね、と自身に言いたくなる。

2021年を年末に振り返った時は「それなりに悪くなかったな」なんてぼんやり思っていたのに、なぜだか未来のことを考えようとすると過去の忘れていた少しだけ苦い思い出がいくつも蘇ってくるのだ。
未来のことは、どうしてだかぼんやり考えることができない。綿密に細かく乱れのない目標を考えようと力んでしまう。

やりたいことを実際にやろうとした時のリスク、費用、時間。私が天秤にかけるのはいつもこの3つだった。自分の願望にそれらを使って本当にやっていいものか?自分に問いかける度に私にはいつも失敗の風景が過ぎていく。

私は真面目じゃない。自分の願望に責任を負うことができない臆病者

あまり要領が良くない人間だったから、何かを成し遂げる時には人より多くの時間が必要だった。それでも上手くいかなかったという記憶は大人になるにつれて痛みを伴う。一つ一つは大きくなくとも、確実に私の自信を削いでいくそれは鋭利な刃物に違いなかった。
子供の時の習い事とは違う。失敗や遠回りは確実に私の将来に影響する。その責任全てを負って、私はあと80年近くを生きていくのに、今それだけのお金を、時間を、労力を、使っていいのか?

私が自分にそう問いかけるのを人は『真面目』と言う。
違うのだ。私は無責任なだけなのだ。自分の願望にすら責任を負うことを恐れているだけの臆病者にすぎない。私は決して真面目な人間なんかじゃなかった。
ダイビングの資格なんて何に使うんだよ!ってつい突っ込んでしまったが、そのくらいアクティブに動く同級生の方がよっぽど有意義にこの時代を生きていると思う。

自分の意思を信じて、やりたかったことに投資したい

私はこの多少の無茶でもなんでも出来る年代で、幅広い選択肢があるこの時代に、何をしようとしただろう。これに答えられない時点で、何も成し遂げられるわけないのに、私は自分に何を期待しているのだろう。
何をするにも自己責任、の大きな重りが背中にあるけれど、それと共に進む勇気がないままではいられないのではないか。私はやっとその現実に向き合った。

お金はないけど時間はある、という大学生活が終わりを迎える頃にこれを自覚するのはもしかしたら遅かったのかもしれない。ただ、これまでのようにその事実で自分自身にチクチクと針を刺すのはもうやめようと思う。私がこれからすべきことは、私がしたかったことに投資することだ。

後悔するかもしれないし、成功するかもしれない。傍から見たら『そんなこと』と思われるようなことでも、私の意思を信じてやってみようと動くことだ。
そうすれば、来年の年末頃には極寒バーベキューをやることになっても、縮こまってないでもっと元気にはしゃげるような気がするのだ。