私は、高校生の頃、ちくわをおやつにしていた時期があった。お昼ご飯だけではお腹が膨れなかったので、何かお腹に入れるものが欲しかったのだ。そこで、家に蓄えているもので間食できるものを探していたところ、ちくわを見つけた。
ちくわだったらお腹も膨れるし、時間をかけずに食べることが出来る。何より、美味しい。しばらくの間、授業の合間の間食にちくわを食べていた。このことを家族に話したら、「学校で食べるおやつに、ちくわはないやろ」と言われ、大笑いされた。
たしかに、女子高生がちくわを片手にベンチに座って真面目な顔で本を読んでいるという光景は、何だか妙な取り合わせだ。ちくわを片手にベンチに座って真面目な顔で本を読んでいる最中に、そんなことを考えていたら、危うく声を出して笑いそうになったことがある。

最近では、恋人へのクリスマスプレゼントに、芋けんぴを渡そうとした。恋人は、芋けんぴが好きで、お取り寄せをしようか迷っていたくらいだったからだ。
そのことを母に話したら、また大笑いされた。今度は、「クリスマスに芋けんぴはないやろ」と言われた。どこかで聞いたようなツッコミだ。高級な芋けんぴを渡すつもりだから手を抜いているわけではないと反論すると、「値段の問題じゃないねん」と諭されてしまった。
この話を聞きつけた姉は、「芋けんぴが悪いわけじゃないけど、芋けんぴはメインにする物じゃない」というラインを送ってきた。私の芋けんぴ話は、叔母にも伝わったらしく、「そういう可愛い所が、あの子の良い所やんか」と言ってくれていたらしい。

ちくわに芋けんぴ 苦笑いや真面目な指摘が一番辛い

私のセンスは、おそらく壊滅的という程ではない。「独創的」や「突飛」と言えるような上等なものでもない。ちくわ話も芋けんぴ話も、周りに人におかしいと言われると、「それもそうか」と納得してしまった。
しかし、どこかずれているらしい。いっそのこと、とんでもなく変わった発想が出来れば、周りの反応など気にせず突っ走ることができるが、それは出来ない。

この話、実は、けっこう真面目に悩んでいることの1つなのだ。ちくわ話も、芋けんぴ話も、思いっ切り笑ってくれたら、こちらも楽しい気持ちになれる。ちょっとした異文化交流をしたような気持ちになるのだ。
しかし、苦笑いをされたり、真面目に指摘されたりすると中々痛い。異文化交流どころではなく、カルチャーショックを受けた気分になる。

目下の心配事は、恋人にどう思われているかということである。昔から私のことを知っている人は、笑って受け止めてくれる。しかし、恋人は、ちくわ話と芋けんぴ話を話したときに、何とも言えない微妙な顔で笑っていた。多分あれは、苦笑いというものだろう。一応、笑っているからセーフだろうと自分に言い聞かせてはいるが、あの笑顔の真意は未だ聞けずにいる。

うっすらと見えた恋人との一生交わらないであろう境界線

思えば、大学の勉強は趣味の延長でやっているようなもので、元々、社会学とか哲学とか文系の話が好きだったという話をした時も、どう返せばいいのか分からないと言っているような表情をしていた。
別に、博識ぶりたかったわけではなく、ただ、お互いの趣味について話していただけだった。同年代の人で、こんな話に食いついてくれる人はそうそういない。同年代でなくともそうだろう。
幸いなことに、あまり深くつっこまずスルーされたため、そのまま会話は続けられた。馬鹿にされたり、変人扱いされるよりはずっと良いが、うっすらと一生交わらないであろう境界線が見えた気がした。

誰だって、全てがぴったり交わるということはない。感じ方や興味が違うからこそ、相手のことをもっと知りたいと思うものだ。私たちは、自分と他者が全く別の生き物であるということを、よく忘れてしまう。そして、自分の感じ方が間違っていると思い込んでしまう。あるいは、自分の想いを汲み取ってくれないことを恨めしく思ってしまう。
私もその一人だ。分かっているのだ。私は私、あの人はあの人。残念なことに、そのことが覆ることはない。
学校にちくわを持っていくのも、クリスマスプレゼントに芋けんぴを渡そうとするのも、哲学や社会学が好きなことも、全てが「私である」という覆らない事実なのだ。ちくわや芋けんぴの、こんなくだらない話でさえ、堂々と人に話せず縮こまってしまう「へなちょこ」も私なのだ。

ずれてるとかへなちょことか、こうして悩むことも幸せだと思える

自分と他者が違う生き物であること、自分が少し一般常識的に振舞えないこと、思い切ってはみ出すことが出来ない「へなちょこ」であること。これらのことを受け入れることが出来るまでに、あとどれくらいかかるのだろう。もしかしたら、死ぬまで葛藤し続けるのかもし
れない。
それでも、こんなくだらない話を、くだらないと笑ってくれる人がいたから生きようと思うことが出来た。少しずれている所も、「へなちょこ」な所も、私にとっては恥で呪いだったことが、こうして文章にすると、本当にくだらないことだったと実感する。少し強がりを言うと、こんな風に文章を書く楽しみに気付かせてくれた恥と呪いに、今は感謝もしている。

本心では、ずれていたくないし、強くありたいとも思う。だから、感謝しているというのは、「これからそう思うことが出来れば良いなー」という願望だ。だが、私から見て、常識的でしっかりしていて強い人にも、私には分からない苦労があるのだろう。そして、私は私で、私にしか分からない至福の時間がある。学校でちくわを食べていた時も、社会学や哲学の本を読みふけっている時も、他者への引け目なんて忘れるくらい夢中になっていた。
私は、自分が思っているよりも、人生を楽しむことが出来ていたのだ。私が感じてきたことが、本を読んだり、文章を書いたり、美味しいものを食べたり、笑ったり、全てのことに繋がっているのだとしたら、苦しむこともそう悪くはないと思える。自分より苦しんでいる人がいるから、自分はまだ幸せな方だと言い聞かせているわけではない。私なりの苦しみや喜びを抱えて生きている私は、今、けっこう幸せだ。