見栄を張って出た日本。現地に赴き頭に浮かんだのは「帰りたい」

赤道直下の赤土が映える国に、私は赴いたことがあった。
引っ込み思案な自分でも、他にここに来た人達のようにもっと積極的に、もっとかっこよく変われるのかもしれない。そんな微かな希望と9割9分の不安を抱えながら、私はその地に降り立った。

だが、試練は何度も襲い掛かってきた。日本ではすんなり出来ることが、赤子のように出来ない。言葉が出来ない為に相手にしてもらえない。自分が情けなく、泣いて動けなくなったこともあった。

日本を出る時、沢山の人が応援してくれた。素敵な志だと褒めてもらえ、心配はされても反対されることがなかった。溢れだしそうな不安な気持ちに蓋をして見て見ぬふりをしながら、周りの人の期待に応えなければと、見栄を張って日本を出てきた。

それが、現地に赴いた途端に頭に浮かんだのは、
「日本に帰りたい」

ただそれだけだった。そして、そう思うことに罪悪感を感じると共に、自分が情けなかった。だから、誰にも言わなかった(ただ、後に聞いてみると私の周りでもそういう気持ちになる人は多いと知り、少し安心した)。

勿論現地の人で助けてくれた人もいたけれど、その裏に「日本人は金持ちに違いないから、親切にしておいて何か見返りが欲しい」そんな意図が透けて見えて、本当に嫌になることが多かった。まだ少し心を許せた人に、「もう日本に帰りたい」と、そうこぼしてしまうことも何度かあった。

パンデミックで早々に帰国。思い出すのは現地で出会った子どもたちで

外国に赴くにあたり、「相手の国の方の価値観を尊重します」なんて、そんな決まりきったフレーズを言ってきたこともあったけど、簡単に口にできる言葉ではないと身を持って知った。
日本人同士でさえ、価値観がぶつかることもある。育ってきた生活環境も、文化も、宗教もまるきり違う国の人の価値観は簡単に受け入れられるものではないのだと今は感じている。

私は、赴いた国の人を悪く言いたいのではない。赴いた国の人は宗教の関係から、持つ者が持たざる者に与えることが良しとされているため、私は前述のような経験をしたのだと考えている。ただ、私にそれを受け入れる器が備わらなかっただけの話だ。

「日本に帰りたい」。そうこぼしていると、知らぬ間に世界的にパンデミックが世界を侵し始め、私は安全上の理由から予想以上に早く日本に帰ることになってしまった。そうなってしまってホッとしてしまったのはここだけの話。

ただ、日本に帰って数年経っても思い出されるのは現地で出会った子ども達のこと。過酷な環境に生きながらも、無邪気で前向きで、「オハヨウゴザイマス!」「コンニチワ!」と日本語で挨拶し、私の名前を呼んでくれていた子ども達。今はどうしているかなぁ……。

旅は日本での日常に慣れきった私を叱咤激励する師匠のようなもの

日本にいると言葉も通じる、何事もほぼ時間通り、そんな日常に慣れ切って、何も出来ない自分でも出来るようになったつもりでいることが多くなっていると感じる。

旅は「おい、何もかもが揃った日本でぬくぬく生きて、出来る気になってるな!怠けずに精進せよ!」と私を叱咤激励する師匠のようなものだったのかもしれない。その師匠の厳しさに耐え切れず、私は沢山の宿題を残してあの地を去ってしまった。パンデミックが過ぎ去った後、いや、共存が叶った後にきっと私はまた師匠に弟子入りすることになるのだろう。

その時に備えて、私は今新しい道に歩みつつある。今度は胸を張って再び赴きたい。そして、今度日本に帰る時には、「あの国とあの国の人たちが大好きだ」とそう言えるようになりたいと思っている。