「女はこうあるべき」という理想像に苦しむ女性たち

「女なのに、男みたいに肩幅でかいな」
大学生の時に男友達にさらりと言われたこの一言に、私は酷く傷ついたのを覚えている。
今でも気にしてしまっているコンプレックスのひとつだ。
当の本人はきっと何とも思っていないし、忘れてしまっているだろうけど。

なぜかこの世の中には「女性は華奢で痩せているべきだ」という規範みたいなものが存在する。
そんな呪いみたいなものにかかって、無理なダイエットをする女性は多く見られる。
私も肩幅が広くて体格が良く見えてしまうことを少しでもましにするために、ダイエットをして6キロ痩せたことがある。それでも骨格の問題上、華奢にはなれなかったが。

痩せている方がいい、というだけではない。
可愛げが大事。
素直で慎ましくいないといけない。
ムダ毛があったらいけない。
身なりに気を使って髪の毛や爪は美しく。
気配り上手でないといけない。
結婚してこどもを産まないといけない。
これらだけに留まらないが、いつのまにかできあがった「女とはこうであるべき」という勝手な理想像に苦しめられている女性はたくさんいる。

世の中が期待する女性像に、とらわれてしまう自分もいる

正直、私は女性のステレオタイプにはぴったり当てはまらない。
小学生の頃流行っていた、友達同士で交換し合うプロフィール帳の「好きな色」の欄には、「水色とか青」と書いていて、女の子らしいとされるピンクは嫌いだった。23歳になった今でも。この頃に戻ってもう一度ランドセルの色を選べるなら、あの赤みがかったピンクは絶対選ばないだろうな。

服装に関してもそうだ。「The 女の子」みたいなフリルやレース、リボンのついた服は苦手で仕方ない。スカートもめったに履くことはないし、パンツスタイルばかり。
髪型も、今は伸びてセミロングだが、何年間もショートカットの時期があった。ベリーショートやウルフカットなどの、ボーイッシュでかっこいい女性のほうにすごく目が惹かれる。

女性らしいとされるものを普段の生活の中で選択せずに、自分の好みや意思で生きてきた自分もいる。
だけど、世の中が期待する女性像にとらわれたがゆえの選択をしてしまった自分もいる。それが脱毛の契約をした時だった。
別に人間だから性別関係なく毛が生えていることが普通なのに、いつからか「女性は毛の処理をするべきだ」というのが当たり前みたいになっている。YouTubeで流れる広告でも「毛の処理をしないと男性に嫌われる」なんていうくだらない脅しみたいなことを言ってくるものまである。

もちろん肌がトーンアップして綺麗になるなどの良い面もあることにはある。でも、周りの目を気にせずノースリーブなどの服を着ることができるようになったとしても、「毛がないのが女」とする社会に流されて迎合してしまった感じがして少し悲しくなる。
この高額な大金を払った選択が自分のためだったのか、世の中が求める「女」としての基準をクリアするためだったのか分からない。

自分の気持ちを大事に、自分らしい幸せを追い求められるように

去年、ジェンダーをテーマに卒業論文を書いた時に、「女/男はこうであるべき」という社会的性差は生まれながらの絶対的なものではなく、文化や社会によってつくられていくものだと学んだ。
日本はジェンダーギャップ指数が先進国の中でも最下位と遅れをとっていて、「らしさ」についての概念も昔から現代にかけて強く根付いている。それがいろいろな場面で差別や偏見となって現れ、苦しめられている人が多くいるのが現状だ。

私は「女」とか「男」なんてものは生物学的なただの「記号」みたいなもので、それ以上でもそれ以下でもないと思う。
だから、規範を与えて容姿や行動を制限したり否定したりするのはおかしいと感じる。今や男性でも化粧をする人がいるのは普通になってきたし、家庭的な人だっているのだから。そしてそこに何もおかしいことや問題はないのだ。

別に女性として生まれたことが嫌なのではない。「女らしくいなきゃいけない」と思いながら生きるのが嫌なのだ。「女なのに」なんていう言葉に対しても「黙れ」と言いたい。
自分の人生を生きていく上での選択や発言、行動は、誰かに愛され認めてもらうためにするものであってはいけない。そうしたものは、その人自身の個性を殺してしまって生きづらくさせてしまうかもしれないから。

だから、自分の内側にある気持ちをいちばん大事にして、自分らしい幸せを追い求められる人が増えてほしい。
誰もが「一人の女/男」としてではなく「一人の人間」として、尊重され生きられる社会になることを願いたい。