私の人生には幾度も転機があった。その中に、引き金が本であったケースが一度だけあった。
それは高校三年の秋。教科書に掲載されていた梶井基次郎の『檸檬』である。

私の価値を理解し、私にしか似合わない言葉・表現で評価してほしい

当時の私には、ともに高みを目指す良きライバルと呼べるような仲間がいなかったし、担任の先生は毎年抱える、自分の成績にそぐわない志望校に頑なにしがみつく受験生に辟易しているようで、私の成績を見ては「このままじゃ無理だ」とか言ってあれこれ勧めてきた。
まるで商品の品質を吟味して小売店に売り捌く卸業者のようだった。どれだけ勉強に励んでも成績は伸び悩み、併願しようとしていた大学でさえ合格できそうになかった。
このまま社会から必要としてもらえないんじゃないか、無理に努力をするより今を楽しめるあの子たちの方が充実しているんじゃないか、などと自問しては心を痛めていた。

それでも私の自尊心は、他と一緒にされるのを拒んで、強い女になろうとした。だから「頑張っているね」「賢いね」という誉め言葉でさえ、私は素直に受け取れなかった。ありのままの私を受け入れつつ、私にしか似合わない言葉・表現で評価してほしい。それが本心だった。

何も定まっていない未来に対し、何か確かに変わらないものが欲しかった。また、学力は変わっても自分の芯は変わらずにいたかった。
だからと言って何をしても愛してくれる家族ではなくて、もっと客観的な判断で、私を理解してくれる存在が必要だった。そんな存在が『檸檬』だった。

檸檬は、自分の中の言い表せない感情を、言い表せないままにしてくれた

『檸檬』は、病に侵された金もない学生の「私」が未来へ期待を抱くこともなく、憂鬱な日々を過ごし、ある日爆弾に見立てた檸檬を丸善に置いて帰ってしまうという内容である。
これを読んでさっぱり意味が分からないという人もいれば、なんらかの共感を覚える人もいるだろう。私は後者だったのである。

自分の中の言い表せない感情を、端的でなく表してくれたと感じたのだ。「端的でなく表してくれた」というのは、要するに「言い表せないものを言い表せないままにしてくれた」ということである。
いずれにせよ、ややこしい表現であるが、例えるならば遊園地に行ったときに抱いた感情を「楽しい」と言い表すのではなく「遊園地に行ったときの感情」とそのまま記すようなものである。より利己的に捉えるならば、言い表せない感情を抱くこと、感情を言い表せずにいるということを肯定してもらえた気がするのだ。

特にキーワードとして「得体のしれない不吉な塊」がある。これは、端的に言えば「不安」や「憂鬱」に換言できるだろうか。でも私には「不安」と言われるよりも共感できるものであった。
受験をはじめとして、刺激を与えてくれる存在との出会いを求めることに諦念するか模索するかを悩んでいた私に、いわゆる「世の中棄てたもんじゃない」と教えてくれたのである。
今抱いた私だけの感情をそのまま言語化してしまえばいい、丸善を檸檬で爆発させてしまいたくなる感情に共感できていいと梶井氏は背中を押してくれたのだ。

『檸檬』の一貫した負の空気は、私が見る世界をそのまま映したよう

また、『檸檬』の一貫した負の空気は、ひとりぼっちの私から見える世界をそのまま映したようだった。
「私」は私の相棒のような存在に感じた。
「私」が檸檬を置いたまま丸善を出たときに感じた「くすぐったい気持」を私も同時に感じて、わくわくしていた。まるで2人で結託して悪戯しようとしているかのようだった。
誰ともひとくくりにされたくなかったはずの私が、自分以外にも暗闇の中を生きる人がいることに喜んでいた。
これは矛盾ではなかったのである。この時初めて自分の感情に気づいたからだ。高め合う友達がいないこと、信用し尊敬できる大人がいないことが私はずっと寂しかったのだ。
私の真の価値を評価してほしかったのは本心だが、その気持ちと同じくらい、ただただ私の現状を理解して、暗闇の中、手を繋いで一緒に歩いてくれる存在がほしかったのだ。

授業後、担当教師は「『檸檬』の「私」は気が狂っているから理解できなくていい」と言ったが、私は傷つかなかった。むしろ、「私」と理解し合える心を誇りに思った。
今はもう受験生の頃の暗闇からは脱却したが、今後の人生でどれほど苦しい局面に至っても、逆境に立たされても孤独を感じることはないだろう。私を強くしてくれたのは、憂鬱を共有してくれた『檸檬』なのである。