子どもの頃、私はとにかく「普通」で在りたかった。当時、とある理由から「不思議ちゃん」呼ばわりされることが多かった。それは子供心に「あなたは私達とは違うから」と一線を引かれているような、ともすれば爪弾きにされているような、そんな不安を抱かせた。

手術後の麻痺が残る私に向けられる、クラスメイトからの悪意に嫌気

小学校に入学して間もないある日、私は自宅で倒れ病院に運び込まれた。脳動静脈奇形という、脳の血管に発症する病気だった。3ヶ月間を病院で過ごし、退院した頃には夏休みに入っていた。入院中に開頭手術を受け、小学校時代は入退院と通院を繰り返した。

近所で仲良くしてくれる友達はいたが、クラスメイトのことはほとんど知らないまま一年生の二学期を迎えた。当然、クラスメイトも私のことなど覚えていなかった。
一方で大人はと言えば、別の学年を担当する教員までもが私のことを認識していた。「大変な手術をしたからみんなで守ってあげてね」。担任からしきりに発せられたその言葉には、優しいようでどこか腫れ物を扱うような、心理的な壁を感じずにはいられない響きがあった。
そして、大人と違って子どもは建前なんてものを知らない。私はリハビリによりペンや箸は使えるようになっていたが、それでも右半身には微かながら麻痺が残っていた。
「どんくさい」「頭切ったなんてキモい」「動きがノロい」と嘲られるのは日常茶飯事で、好き好んでハンデを背負う人なんていないのにと、幸運な健常者から浴びせられる悪意に嫌気がさした。

子どもながらにレッテルに憤り。理論武装しようと本を読み勉強した

私が不満を抱いていたのは、なにもクラスメイト相手ばかりではない。先にも述べたように、担任をはじめとして他の教員たちからも、「脳に病気があるちょっとおかしい子」というレッテルを貼られている感覚はずっとあった。
当時はまだ偏見なんて言葉を知らなかったが、決めつけで判断されることに対して、子どもなりにずっと違和感と憤りを覚えていた。

小学校で過ごした6年間、運動こそできなかったものの、そのぶん周りよりは本をたくさん読んだし、勉強もそこそこ頑張った。そして屁理屈まみれの偏見から、いつしか子どもなりの理論武装で自分を守るようになった。
頭がおかしいと私を蔑んでいるクラスメイトが、テストで私よりも低い点数を取っていることが滑稽だった。しきりに投げかけられた嫌味や皮肉は、デタラメで根拠がないので痛くも痒くもなかった。成績が悪くなかったからか、教員も病気を理由にしてあれやこれや言わなくなった。
知識や教養は、弱かった私に自信という形で力を与えてくれた。

「理屈っぽいのはかわいくないな」。その一言がやけに引っかかった

病気が完治し大人になってからは、周りに私のかつての病を知る人はほとんどいなくなった。
「普通」に暮らしていたそんなある時、ふとした会話で「理屈っぽいのはかわいくないな」と言われた。ただ自分の意見を述べただけで、だ。
発した本人はおそらくそこまで深く考えてなどいなかっただろうが、その一言がやけに自分の中で引っかかった。話の論点をずらして、私の可愛げのなさを標的にするそのやり口が姑息だと思った。
それと同時に、かつて「普通」を夢見ていたはずの自分が、女性としての「普通」を押し付けられることに対して、ひどく拒絶反応を示していることに気づいた。

女の子は弱かったり少しバカっぽいほうが好感を持たれやすいと聞いたことはある。けれども、訳知り顔で語られるそのような一般論ほど空虚なものはないと思う。
強くて何が悪いのか。理屈っぽくて何が悪いのか。無知な他人に理不尽に虐げられることの辛さを考えたことがあるだろうか。健康状態を選べないのと同様に、性別だって自ら選べるものではない。女性だからといって、己の価値を制限されることが「普通」とされていいのだろうか。そもそもこの世の中に「普通」の境界線なんてものがなければ、かつての私だってあれほど思い悩むこともなかったのだ。
私を「かわいくない」というならば、その原因は寧ろ、そうやって自分勝手に他者をジャッジしてきた人々のほうにこそある。可愛げがないといって嫌われるのならそれでいい。安心して見下せる対象しか「かわいい」と思えないような人間ならば、私からしたって必要はないのだ。

私は女性である以前に、私という個人。人の数だけ「らしさ」はある

女性らしくない? 上等じゃないか。女性どころかそもそも人間として、充分なほど色物扱いされ、時にはそれを演じてさえきた。私は女性である以前に、私という個人なのだ。いや、私に限らず誰だってそうだ。人の数だけ「らしさ」はある。
「女性らしい」とか「普通」なんていうものは、実際には全くの虚構にすぎないのではないか。「強くてやさしい」「理屈っぽくてかわいい」。そんな概念があったっていい。
性別、血液型、職業、出身地……。人は様々な属性を持っている。そんな中で、それらの表面上のプロフィールには依存しない唯一無二の「自分らしさ」こそが、その人自身の最大の魅力になるのだろうと、私は信じている。