小説を読むことが好きだ。特に純文学。
初めて読んだのは村上春樹さんだったかな。中学くらいの頃だと思う。やたらとベタベタ、女、男、とラベル付けされたようでびっくりしていた。
わたしはちょっと異性嫌悪な部分があると思っている。当時のわたしにもあった。
映画のラブシーンが刺激的で映画を見なくなった。
周りの恋バナがつまらなかった。
彼氏が欲しい、とぼんやり思うことはあっても彼氏になって欲しい人はいなかった。
村上春樹さんの世界観にはびっくりした。嫌で、なかったから。
とってもセクシャルな話をしているのにいやらしさが全くなかった。それが、子供にもわかった。芸術のフィルターかなんかかな、とぼんやり思った。

わたしの他にも女らしい振る舞いを、恥じる人がいたと思えた「かか」

成人して、年の近い女性の書く純文学にどハマりした。
今話題の、宇佐見りんさん。今度の新作もとても楽しみに既に文芸誌を買って積読状態。
デビュー作「かか」について皆さんはどう思われたのか。

「女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ。」これは本文の引用で、帯文になっていた。どこで誰に向けて放たれることばなのかとても気になったけれど、ああ、そういう気持ちになっている女性はわたしだけじゃない、と思えた。
わたしの他にも女らしさを振る舞うことを恥じている人がいた。そう思った瞬間だった。

「かか」の中には、こんなこと書いてだいじょうぶ?と思ってしまうような女性の描写がたくさん出てきた。ぞわりとした。
女のわたしにはわかるあんなこと、こんなことが例の芸術のフィルターがかかってものすごい表現力でばんばん出てきた。

主人公の彼女は、かか(母のことなのだけれど)の処女を奪ったのはわたしだ、と自分を責め立てる。
奪って、かかを壊したのはわたしだ、と。
相手の男ではない。
女は自分で身を守らなくちゃいけない。自分の女を。
そんなことを書いてあるように感じた。
憧れの宇佐見りんさんの中にもそんな気持ちや、わたしとどこか共通する考え方なんかがあれば嬉しいな、と思った。
けれど酷くない男の人だってたくさんいるこの世界で、そんな男性はこの小説をどう読むのかなとちょっと気になった。

セクシャリティは難しい。

主人公は女であることに病んでいるかも。ああ、と思った。同じだ、と

もう1つ。これは文芸誌に載った段階のとても新しい小説なのだけれど、綿矢りささんの「眼帯のミニーマウス」。
すばるという文芸誌の1月号に掲載されている。

ここでうわっと思ったのは、小さな巾着ポーチを主人公が「子宮くらいの大きさ」と表現していること。
そのポーチをいつもパンパンにして持ち歩いていて、「子宮を満たしたいなんて欲求不満なのかな」と書いてある。
どんな連想ゲームだ。サイズ感の表現にわたしは他のどの臓器だって使ったことがない。子宮なんて絶対に使わない。
この作品では、社会に疲れて日常に飽きてなんか面白いことないかなーというかまってちゃんの主人公が出てくる。主にそっちなのだけれど、わたしは彼女は女であることに病んでいるような気がした。だからここでも、ああ、と思った。同じだ、と。

どうしてそう思ったのか自分でもよくわかっていなくて、だから女であることに病んでいるわたしの合わせ鏡になっているのかもしれないけれど、この「眼帯のミニーマウス」をわたしと似たような読み方をした人がきっとどこかにいるのではないかと思う。
綿矢りささんも、わたしの理解者だろうか。

文学の流行は次々に変わり、文豪たちの書くものは、社会を表している

純文学は本の中で芸術のトップのように思っている。
まだまだ狭いわたしの視野の中では、男性作家の書く純文学と、女性作家の書く純文学は思いっきり違う。
男性作家は恋愛や性愛そのものを芸術として、美しく書いているような気がする。
女性作家は女に置かれる苦しみを訴えているような気がする。
これは書かれた作家さんの考えそのものではないかもしれない。
けれど、男から見た恋愛、女から見た恋愛、のようにざっくり概念として存在するものなのじゃないかとわたしは思う。
文学の流行はものすごい速さで変わっていく。
つまり今の文豪たちの書くものは、きっと社会を表している。