白黒の写真の個展に足を運んだり、写真集を買ったりする人間は何人いるのだろうか。
特に、私と同じ20代。そう多くはないんじゃないかと思う。

でも私は幸運なことにきっかけをもらって、その奥深いであろう世界の入り口に今、立っているのである。

モノクロで撮った芸術作品には、吸い込まれるような神秘があった

2021年ももう終わりというころ、私に劇的な出会いが訪れた。
映画『逆光』との出会い。
25歳の須藤蓮さんという方の初監督作品で、自身が主演も務められている。自主制作映画であるだけでなく、配給活動もご自身で行い、そんな彼の熱量に私は今あてられている。
そしてこの映画を通して出会ったのが、モノクロ写真である。

石間秀耶さんは、私と同年代の写真家だ。
彼は須藤監督のオファーを受け、映画『逆光』のスチール撮影に同行し、映画と同じ題材でありながら、独立した作品である写真集「ONOMICHI」を制作、刊行された。

カラー写真が撮れる環境であえてモノクロで撮った芸術作品をまともに見たのは、これが初めてだった。
経験の乏しさゆえに、正直、わからないことも多い。
でも、「すごい」というのは本能的かつ感触のある感想で、そこには吸い込まれるような神秘があったのだ。

白黒の写真はたとえば歴史の教科書に出てくるような、「古い」ものという見方もできると思う。
でもこの時代にあえて無彩色で表現されたこの芸術は、まったく「新しい」経験を私にもたらしてくれる。

モノクロ写真は純文学のよう。こちらに委ねられる部分が多い

私は芸術作品を鑑賞するとき、しばしば受動的になってしまう。たとえばドラマは、こちらが手を加えなくてもその世界の時間が流れていき、登場人物が台詞で、行動で物語ってくれる。もちろんドラマを能動的に体験することはできるけれど、そうしなくても十分楽しむことができる。

そういう意味でモノクロ写真は、純文学に似ている、と思う。
そもそも小説はこちらが能動的にページをめくらない限り、時計が動いてはくれないが、それだけではない。エンターテインメント小説なんかは、読者にわかりやすく、親切に書かれている場合も多く、結局のところ受動的な味わい方ができてしまう。
しかし純文学は、すべてを言葉にしてはくれない。こちらに委ねられる部分が大きいのだ。語らないことで語っている。

モノクロ写真もまたそうで、切り取られた世界からさらに色が奪われている。
提示されたものだけを見て、「かっこいい」と呟くことは十分にできる。
しかし、写されていないものを見る能動的な行為を通すことで、また別の体験ができるのだ。制限された、色のない世界だからこそ、私の世界を鮮やかにしてくれる。

難しさが分かる私だから、「一緒に冒険しよう」と伝えられるはず

……と、わかったふうに偉そうに語ってみたが、私はまだ世界の入り口付近を彷徨っている。

でもこの「難しい」という本音も含めて、いい体験ができている、と感じている。
入り口にいるからこそ私は、世界の外にいる人に手を伸ばして、「一緒に冒険してみようよ」と誘いかけたい。私のような芸術に精通していない若者にとって、モノクロ写真は、まったく新しい体験になるはずだ。

2021年の終わりにあった出会いを2022年に繋げて、新しい体験で自分を豊かにする。

「ONOMICHI」は、その背中を押してくれる。
同世代の人間が持つ熱量ほど、若者の心に火をつけるものはないだろう。