僕は37歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。
そんな一文からはじまる小説のタイトルは、『ノルウェイの森』。
まだ大学2年生だった冬のある日、図書館のおすすめ本コーナーにその本がひっそりと並べられていた。
何も知らず手に取った静かな小説から感じた「死」と「生」
赤と緑の装幀が目を惹く上下巻。
シンプルでありながらもどこか強烈で、気づけば何かの引力に引き寄せられるように、その本をカウンターに差し出していた。
当時、本を読む習慣のなかった私は、作者が村上春樹であることも、それが国内外でベストセラーになっていたことも、何も(本当に何も)知らなかった。
確かなのは、それがはじめての村上作品との出会いで、今ではすっかり切っても切り離すことのできない特別な存在になっているということだけだ。
村上作品に登場する主人公のほとんどは、既に何かを失っているか、あるいはこれから何かを失う運命にあることが多く、失った事実を静かに受け入れている。
普通であれば驚くような出来事に対しても、決して大げさに驚くようなことはせず、起きたことをそのまま起きたこととして、静かに受け入れるのだ。
『ノルウェイの森』の主人公もまた、大切な人を失い、そして傷つき、その事実を静かに受け入れていた。
出会いがあって、また失う。
失いながらも、新たな人とまた出会う。
静謐で、どこか淋しげで、死のにおいがゆらゆらと漂いつづけるなか、本の中には確固とした「生」が存在していた。
何度も読み返すたびにぼうっとして、そしてむくりと起き上がる
そんな本に出会ったのは、はじめてだった。
村上作品のどこが好きかと聞かれても、私はうまく答えられない。
心が、もしくはいのちが揺れそうになったとき、気づけば無意識に手にとっていて、何度も何度も読み返しては、その度に私も主人公と同じように何かを失い、そして新しい何かを得ている。
励ますような言葉が並んでいるわけでもなければ、希望に満ちたストーリーでもない。
だけど村上作品を読むと、生きるちからがふつふつと湧いてくるのだ。
読み終わったあとの私はしばらくの間ぼうっとして、それからむくりと起き上がり、心が落ち着いているのを確かに感じるのだ。
「どうして苦しいって感じるの?」
「なんでそんな気持ちになるの?」
物心ついたときから今に至るまで、私が暗いトンネルに入るたび、いろんな人からそんな質問が投げかけられた。
そしてその質問が投げかけられるたび、私に答えられるのは、「分からない」のただひと言だけだった。
「分からないけど、苦しい」
どんなに探しても見つからない答えを要求されて、必死に考えて考えて、それでもやっぱり分からないのだ。
苦しいから、苦しい。それがすべてだった。
無理に分かろうとしなくても、そこには必ず糧になるもの
だからはじめて『ノルウェイの森』を読んだとき、私は心の底から救われるような思いがした。
分からないものは、無理に分かろうとしないでいい。
心の奥であたため続けていればいいのだ。
いつか分かるときがくるかもしれないし、それは永遠にこないのかもしれない。
だけど、必ず糧になる。
そんな風に言ってもらえた気がして、そう思った途端に視界が広がった。
生きることに、ひかりを感じた。
「人は人、我は我なり、猫は猫」
村上さんがディスクジョッキーを務める大好きなラジオ番組で、彼は最後の締めくくりにそう言った。
考え方も生き方も、尊敬できる心の恩人。
小説家になりたいと思うきっかけをくれた、私にとっての神さまみたいなひと。
毎年寒くなると読みたくなる『ノルウェイの森』。
去年の暮れに読んでしまったから、次に読むのは今年の暮れ頃になるだろう。
はじまったばかりの2022年。
今年も村上作品にたくさん触れて、最後は『ノルウェイの森』で締めくくろうと今からわくわくしている。