「世の中、数学や物理みたいに正解が一つしかないことばかりじゃない!いろんな正解のある学問こそ、人生には大事なんだ」
作品内である教師はこう言った。私は正直その通りだと思っていた。
加藤元浩先生作「C.M.B. 森羅博物館の事件目録」は、ほぼ一話完結型のミステリー漫画だ。日本三大ミステリー漫画があれば、その一角を担うであろう作品であり、冒頭の台詞はその六十五話に出てくる。

人間にとって正解は大切。それと同時に「間違い」も存在する

あらすじとしては、ある日学校で器物破損事件が起こる。主人公と被害者が捜査していくと、器物破損の一因は被害者自身にあることが分かった。しかしことが大きくなった原因は犯人である教師が事実を隠蔽しようとしたせいであり、その点を主人公も被害者も非難するが、教師は非を認めない。

「先生は正解が一つしかない勉強は人生の役に立たないって言ってたけど」
主人公は教師の台詞を繰り返した。
「自分が間違えることを知るためにやるんだよ」
その台詞は痛烈に刺さった。

数学にしても国語にしても、学生時代に誰もが一度は考えるだろう。こんな勉強、何の役に立つのか、と。
教科の数だけ、または人の数だけ答えがあるが、その中の一つにこのこの教師の台詞、主人公の台詞があって欲しい。
教師の言う「世の中にはいろんな正解がある」という台詞は、私でなくとも誰もが納得する現実だろう。

たとえば世の中法律という規定があるが、法を犯した者が完全なる悪か、間違いかと言えばそうではない。だからこそ害した側、害された側両方に立つ裁判が存在するのだ。人間にとって「いろんな正解」はとても大切だ。
しかし同時に、世の中には確かな「間違い」も存在する。

最初に読んでから数年後、改めて読み返して刺さった台詞があった

私が最初にこの話を読んだのは、今の職に就いたばかりの頃だった。上手いこと言うなぁとは思っても、それ以上に何かを感じることはなかった。
単行本を買ったのはその数年後だ。同じ話、同じ台詞を読んだとき、刺さった。
そうだよな、そうなんだよな、と。一度読んでいるはずなのに何度も何度も同じページを読み返した。
学生時代、眠気に耐えながら解いていた問題の数々。その意味が、この話に詰まっていた。

私は今、一つの間違いが誰かの命に関わる職業に就いている。毎日間違いが起きないよう、神経を擦り減らしながら業務に携わっている。
職員全員がそうであるのに、それでもやはり、どこかで間違いは起きてしまう。
この漫画を読んだ後、開き直りでも何でもなく、事実として改めて思う。どうしたって人が関わる以上、間違いはゼロにはならない。

答えが一つしかない学問は、幼い私たちに自然と「人は間違える」ことを教えてくれた。
そして間違えることを知ったならどうするのか。人は学ぶ。間違いが限りなく小さくなるように、取り返しが付くところで発見できるように、これまた私たちは必死に努力を続けている。

当たり前のことに気付かせてくれた話のおかげで、私は変わった

間違いは怖い。取り返しの付かない間違いによって引き起こる現実も、責め立てられる未来も、怖くて怖くて仕方がない。
しかし今、私がその恐怖に震えながらもまだ決定的な間違いを犯さず業務を続けているのは、先人の取り返しが付かない間違いと、そこで立ち止まらなかった勇気、弛まぬ業務改善のおかげだ。

間違えることを知っているからこそ、変えられることがある。
今まで気にもしなかったたくさんの当たり前を、この話は私に気付かせてくれた。
他人からすればたった一冊の漫画本の、たった一話、数個の吹き出しだろう。漫画本というだけで笑う人もいるかもしれない。けれどストーリーや台詞一つに込められた意味、想いが読んだ人の中で何かの形として残るならば、純文学も啓発本も漫画本も何も変わらないと思う。
当たり前を意識するだけで、少なくとも、私は変わったのだ。