17歳。高校2年生の冬、母は死んだ。
17時45分頃だったと思う。
私は体が引き裂かれそうなほど泣いた。
私の声は病室の壁をつんざいた。
私はお母さんの手を握った。
体が冷たくなり始めている。
こんなに冷たいお母さんは初めてだ。
女神のようだったお母さんの死。私はグループホームへ
お母さんは女神のような人だった。
学校から帰った後、お母さんは私の話をうん、うん、と優しく聞いてくれ、小さい頃からやりたい習い事はなんでもやらせてくれた。
とにかく優しかった。
中学でいじめにあった時も、おばあちゃんと一緒に学校に行って直談判してくれた。
大好きな、大好きな、世界一大好きな、お母さん。
そんなお母さんが、今、死んだ。
乳がんだった。
お母さんはそれと同時に肝臓も悪くしていたらしく、体が黄色くなる黄疸という症状を起こしていた。
お母さんは死ぬ間際、黄色い涙を流した。
その涙にはこう言葉が込められている気がした。
「この子達を置いて、死にたくない」
私は病院帰りの車の中、窓から見える星空を眺めながら揺られていた。
もう心も体ももぬけの殻だった。
目はちゃんと色が見えているはずなのに、モノクロに見えた。
お母さんは生前、とある知り合いに会っていた。
その人とは別の用件で会っていたが、グループホームの理事長でもあり、ある日、うちに上がってお母さんと話していた。
その人は本来の用件より、お母さんの体の状態が気がかりに思い、お母さんにこんな言葉を残していた。
「お兄ちゃんと沙彩ちゃんは僕に任せて。お母さんにもしものことがあったら、僕のグループホームに引き取るからね」
私はそのグループホームに入った。
私は最初、区役所の一室でグループホームの職員さんと対面することになった。
職員さんに、お母さんの代わりに甘え切ってもいいと思っていた
そこで私は中島さん、小林さん、来野さんに出会った。
お母さんくらいの年齢の女性の中島さん、小林さん。
20代後半あたりのお兄さんの来野さん。
私はこの人達がこれからお母さん代わりになってくれるんだと胸が高鳴った。
職員さんは「なにかあったらいつでも頼ってね」と言ってくれた。
だから、私はその日から遠慮なく職員さんに頼った。
職員さんに毎日夜中に電話をし、彼氏との同じ悩みを何度も何度も相談した。
職員さんの大切な家族の時間を奪ってまでもした。
相談したくせに、「アドバイスはいらない。ただ話を聞いてほしい」と言った。
相手に言いたいことを言わせず、ずっと黙って聞かせた。
それを2~3時間させた。
途中でホーム長の山田さんとおばあちゃんの年齢の職員さんの柳原さんがアドバイスや忠告をしてきたが、私はその話を一切聞かなかった。
お母さんが亡くなったから、お母さんみたいな人を探して、甘え切ってもいい、寄り掛かり切ってもいいものなのだと思っていた
そしてある日、グループホームの入居者と職員さん全員が集められた。
グループホームの入居者全員が集められるのは、ミーティングでよくあることだけど、職員さん全員が集められるなんて……。
なんだかただならぬ雰囲気がただよっていた。
そして職員さんの口が開いた。
「中島さんがご家庭の事情で今日限りで退職となります」
えっ……。
気がついたころには私は、金切り声をあげて泣いていた。
第二のお母さんだったのに。
アドバイスも聞き入れなかった。何人も辞めていく職員さん。
次に私は、中島さんの代理になった小林さんをお母さん代わりにした。
子供がいる夜中にも、私は電話した。
そして1年以上がたった頃、小林さんが辞めた。
他の職員さんに事情を聞いたけど、答えは同じ、「家庭の事情」。
家庭の事情ってなんだよ。
何がいけなかったの?詳しく教えてよ!
私は今度は思考を変えて、一人をお母さんにして頼るのではなく、いろんな職員さんに分散して頼ることにした。
今回はうまくいくだろうと思っていた。
来野さんは優しく聞いてくれた。
夜中でも、長時間でも、いつなんどきでも黙って話を聞いてくれた。
でもある時から、何か様子がおかしくなった。
来野さんの体調が悪い。最近朝が起きられないらしい。
そして、職員さんとの間でも、私にちゃんとアドバイスをしようという風潮が出てきた。
あぁ、もうやめてよ。こっちだって辛いんだから。
来野さんからもメールが届いた。
私は、怖くて読めなかった。
柳原さんや山田さんからも、
「ちゃんと人のアドバイスは聞いたほうがいいよ」
「もう、来野さんに同じ悩みを相談するのやめな、来野さん死んじゃうよ」
「それくらい今体調悪いんだよ」
と言われた。
うるさいなぁ、そんなわけないだろう。
柳原さんが言っていることはたぶんウソだ。
仕事場から帰ってくると、
「来野は3カ月お休みをもらいます」
と書いてあった。
まぁそのうち戻ってくるだろうと思っていた。
ある日、来野さんが辞めた。
最後の第二のお母さんが、死んだ。
私は、もうこのグループホームにいられないと思った。
私はしばらく落ち込んでいた。
目の前が真っ暗に。自分がしてきたことのひどさに気がついた
目の前が真っ暗で、もう何もする気が起きなかったけど、ふと、これまで亀裂が入っていた、いや、自分から壁を作って嫌っていた柳原さんと山田さんと話すようになった。
話したきっかけは別の事だったんだけど、私は柳原さんと山田さんと仲良くなった。
そして徐々に、人のアドバイスに耳を傾けられるようになった。
アドバイスを聞き入れ、できるところから少しずつ実践できるようになった。
自分でも驚きだった。
なんでいきなりこんなことができるようになったんだろう。
今でもわからない。
話していくうちに、私は今までなんて職員さんに追い込むようなひどいことをしたんだろうと気がついた。
辛いからってなんでもしていいわけじゃないんだ。
来野さん、小林さん、中島さん、ごめんね。
家族だからって、仲間だからって、友達だからって、甘え切っていいものなのかな?
寄り掛かり切ってもいいものなのかな?
いや、家族だからこそ、頼って甘えていいものがあるかもしれない。
職員さんだって人間だ。
寄り掛かり切れば、倒れる。
だから来野さんは、倒れた。
職員さんは家族ではなく職員なのだ。
お母さんではなく職員なのだ。
今の私は家族だからこそ頼っていいことと、職員さんだからこそ頼っていいことの区別がついている。
自立すべきところもわかっている。
だからこそ言おう。
それを踏まえたうえで、愛する職員さんを“家族”と呼ぼう。