母や祖母の言葉に反抗するかのように、露出度は上がっていった

「肩、お腹、足ば出すなんて女性がすることじゃなか。一緒におる私が恥ずかしか」
「そんな服着て襲われても知らんけんね」
毎日のように母や祖母に、こんなことを言われて私は育ってきた。
彼女達の言葉に反抗するかのように、私のファッションの露出度は上がっていった。

いつしか、私は友人達に「露出狂」と呼ばれるようになっていた。
「露出狂なんだから、彼氏なんてすぐ出来るって!」なんてアドバイスされる。
男性には全身をなぞるように見られ、ニヤつかれ「今日もエロいね」と声をかけられる。

「貴方のために着てる訳じゃないよ」
言い返すのも束の間、当たり前のように腰に手を回される。
ひきつけられる。モノのように扱われる。こちらの同意もなく。
「こんな風に可愛がられたかったんだろ?」
そんな言葉をかけられる度に、目の前がよどむ。明るかった世界が灰で霞み、グレーになっていく。
誰かが言っていた通りだ。世界は青くて、灰色だ。世界の底に突き落とされたような、無気力で重たい身体になっていく。

アメリカには何にも縛られず、自分が好きなように楽しむ人々がいた

私は、露出の多いファッションが好き。それは男性に色目を使うためではない。ただ、私が私のために楽しんでいる。理由はただ一つ、私にとって私が最も綺麗に見えるから。

ファッションとは生き方である。ファッションとは言語である。
そう信じていたいのに、「女性の着る服じゃなか」「露出狂」「エロいね」と、これまで投げつけられてきた言葉や、半笑いの顔が、脳内で何度も再生される。

ああ、もしかして自分が楽しむためのファッションって許されないのかな。自分のためのファッションだと主張することって無意味なのかな。そう思うようになった。

そんな最中、私はアメリカの大手企業に勤務する機会を得た。約半年間のアメリカ生活で、私の認識は大きく変化した。

“Hey,I love your fashion!”
“Where did you get that from?”
同僚や友人だけでなく、バスの知らない乗客にも……何度声をかけられただろうか。
お腹が出ていようと、体がふくよかでも関係なく、何にも縛られず自分が好きなファッションを楽しむ人々がいた。
そこに色目なんて1ミリたりとも介すことはなく、ただただ自分自身の表現であり、生き方としてのファッションを楽しめた。
そんな世界の中で、初めて「自分という存在」を温かく迎え入れられた感覚があった。
「日本人女性のファッションは、見えないコルセットで締め付けられているのかも」
そう考え始めるきっかけになった。

伝えたいこと。今着ている服で、何を主張していますか?

帰国してから、私は日本における女性蔑視の歴史を学び始めた。
本を読みながら吐きそうになったのは、人生で初めての経験だった。
これまで私が経験したあらゆる発言の裏には、男性優位の思考があるようだと気づいた。
哲学者のボーヴォワールの言う通り、「人は女に生まれるのではない、女になる」のだから。
社会が都合よく構築した“女性性”をわきまえない私が、今皆さんに伝えたいことがある。

「ファッションとは生き方である。ファッションとは言語である」
コルセットに象徴される19世紀の抑圧的なファッションから、女性の身体と精神を解放した“COCO CHANEL”。
一方で、ウエストを細く絞り女性の身体性を強調し、丈の長いスカートを合わせたDiorの“NEW LOOK”コレクションに対して、当時の女性達はデモを起こした。スローガンは“Mini Skirts Forever”と、それまでの女性性から解放するファッションを求めた。
今日の貴方と私の人生は、女性性というコルセットからの解放史の上にあるのだ。

さて、「あなたは今着ている服で、何を主張していますか?」。
今、私が皆さんと一緒に考えたいこと。
「見えないコルセットって、どうしたら見えるでしょうか?どうしたら見えないコルセットが外せるでしょうか?」
21年間懸命に生きてきた私なりの一つの仮説。
「見えないコルセットを見ようとしましょう。そして、一緒に外そうとしてみましょう」