『さがしもの』(角田光代/新潮文庫)に収録されている『彼と私の本棚』という短編小説がある。これは恋愛の話なのだが、私にとっては当時悩んでいた母親との関係性を見直す良いきっかけになった。

母が舗装してくれた道を歩いてきた私。有難さが重かった

ずっと実家住まいだった脛かじり娘の私が、初めて家を出て縁もゆかりもない土地で生活をスタートすることになった。
井の中の蛙とは私のことで、自覚もあった。それで良かったし、幸せだったのだ。ただ、不思議なもので、人はとある瞬間の小さなことがきっかけで、あらゆるシコウが変化し、昨日の自分には戻れなくなってしまうことがある。

昨日まで好きだったものが物足りなくなったり、昨日まで考えていたことがしっくりこなくなったり、それで志の方向性がガラリと変わったり。生きていれば自然なことなのだろうが、シコウが変わると、自分や自分と同化しているような人は少し驚いてしまう。同化しているような人とは母のことだ。

私の痛みは母の痛み、むしろそれ以上なのかもしれない。私達は一つの個体のような、そんな存在で在り続けていた。だから母は、私が傷つきすぎないように、私が変(と一般的には思われてしまうような)な道へと進まないように、ずっとずっとガードレールをコツコツと建ててくれていたのだと思う。
私はというと、母が舗装した安全な道をあたかも自分の力で歩いているような気になっていたのだった。

そのありがたさを、ただただ素直に受け止められたら良かったのに、天の邪鬼でひねくれ気味な私は、その大きい愛情とシコウをまっすぐに受け止めることができず、またそれらを全身で受け止めなければならないという謎のプレッシャーに勝手に押しつぶされていた。

そんな中、この本に出会ったのだ。

別れのシーンで心臓がぎゅっとなる。母の愛の正体が見つかった

『彼と私の本棚』は二人の若い男女の出会いと別れの話なのだが、その二人が同棲を解消する時に、お互いの集めた本がごちゃまぜになっている本棚を整理するシーンがある。それぞれの好みの本でパンパンになっている本棚から、一冊も違えることなくそれぞれの手元に帰るよう本を仕分ける。

というのも、一冊でも相手の本を持っていれば、その人の気配までも持ち続けることになるからだという。そして、主人公の女性はその時の気持ちをこう表現している。

「だれかを好きになって、好きになって別れるって、こういうことなんだとはじめて知る。本棚を共有するようなこと。たがいの本を交換し、隅々まで読んでおんなじ光景を記憶すること。記憶も本もごちゃ混ぜになって一体化しているのに、それを無理やり引き離すようなこと。自信を失うとか、立ち直るとか、そういうことじゃない、すでに自分の一部になったものをひっぺがし、永遠に失うようなこと。」

恋愛のことが書かれているはずなのに、他人事とは思えず、心臓がぎゅっとなった。はっとする。

「一体化しているのに、それを無理やり引き離す」

故郷を、そして母のそばを離れる私に対して、母はこういう感覚になって不安でたまらなくなったのかもしれないと。

相手を尊び、考えることこそ、私なりの「愛の解釈」の結果だと思う

きっと私はそれまで、“わかりやすく”母の一部だった。その結びつきはあまりにも強く、そしてそれは当たり前にそこに在り続け、気づくまでもなかったのだった。母を傷つけたいわけではない、でも私は私を幸せにしたい。一体、一緒にいるというのはどういうことなのだろう。

考え抜いてわかったのは、きっと、私はこれからも母の一部なのだということ。ただ、それは物理的に一緒にいることで証明されるのではなく、また違った方法で明らかになってゆくのではないかということ。

そして、このように相手を尊び、考えること、それこそが私なりの愛の解釈の結果なのだということ。そんなことを、我が子を胸に抱きながら考えている。