先生は、ひとりぼっちの。子の。そばにいる、もう一人の、ひとりぼっちになりたいんだ。

重松清『青い鳥』の一節だ。「ひとりぼっち」の生徒たちと、吃音の国語教師「村内先生」との交流を描いた物語。私はこの作品に救われた。
私も当時「ひとりぼっち」だったから。

「ハブかれてる」。そばにA子はいたけど一人な気がした

中学3年の夏休みが明け、つるんでいた女子のグループから仲間外れにされた。
話しかけてもよそよそしい。全然目が合わない。あれ?と思いながら近づいたら走って逃げられた時、「あ、私ハブかれているんだ」と知った。
何が原因かよく分からないけれど、どうやら彼女たちは私が気に食わないらしい。淡々と分析する冷静な自分の一方で、明日からどうしようと動揺する自分がいた。一人は怖い、受験があるから成績に響いたらまずい、親に知られないようにしなきゃ……。

でも私のそばにいてくれる人が一人いた。A子だ。A子は私と同じく元グループの一員で、仲間外れになった後も変わらず接してくれたことをいいことに、私はA子とベッタリになった。
だが、私と一緒にいるということは、彼女も仲間外れになるということだ。A子は自分で選んで私といるんだと言ってくれたが、私は彼女を解放すべきなんじゃないか、と罪悪感が付き纏った。
でも一人になる恐怖から彼女を手離せなかった。いつか離れられてしまうんじゃないかという不安から、二人でいるのに一人な気がした。

本のなかの先生が、背中をさすってくれるような気がした

そんなときに出会ったのが、この『青い鳥』だ。
作中に登場する生徒たちはそれぞれ心に何かを抱えている。うまく言葉を発せられなくなった子や、教師を刺してしまった子、父親が自殺してしまった子。皆学校やクラスに馴染めず、何かに潰れそうになりながら、必死に毎日を過ごしている。そんな彼らに寄り添うのが村内先生だ。
村内先生は吃ってしまうので、あまり多くのことは話せない。本当に大切なことだけを話す。だから心に響く。最初は村内先生に違和感を持ち、反抗の姿勢を見せる生徒たちも、徐々に先生に心を開き、最後は少し前を向ける。
先生は、頑張れとか君ならできる、とか無責任なことは言わない。こうしろといった指導も誘導もしない。その代わり、今の君でいいんだよ、とただそばにいてくれる。
先生は彼らに言う。「間に合ってよかった」と。

読み始めた最初の印象は「重いな」だった。でも読み進めていくうちに、この生徒たちと当時の自分を重ね、気づいたら泣いていた。
ずっと一人が怖かった。悲しかった。学校生活がしんどかった。見ないふりをしていた心の傷に、ひとりぼっちでもいいんだよ、先生がいるよ、と村内先生が背中をさすってくれるような気がした。作品の、村内先生の優しさに、込み上げてくるものがあった。

一人になることは怖くなくなり、A子への感謝の気持ちが大きくなった

その後、劇的に何か変わったわけではなく、無視される日々は続いたが、一人になることは怖くなくなった。どうせこの生活も卒業まで残り数ヶ月だと割り切り、むしろ彼女たちよりいい高校に行ってやると受験勉強へのモチベーションにした。
そして、私と一緒にいてくれたA子に対しても「申し訳ない」だけでなく、「ありがとう」という感謝の気持ちが大きくなった。
誰かがそばにいてくれるということは幸せなことなんだと心に留め、彼女と一緒に過ごすうちに、気づけば前のように思いっきり笑うことができるようになった。

あれから十数年経った今でも、心が潰れそうなるとこの作品を読む。段々生徒たちより村内先生や作中の教師たちに年齢が近づいていくからか、あの頃とは違う感想や気づきがある。
でも変わらずそこにあるのは、村内先生の優しい言葉たち。先生の言葉が大丈夫だと支えてくれる。そうして私も一歩進む。
村内先生、間に合ったよ、ありがとう。