希望を持って入社をしたつもりだった。私が入った会社は、第一志望の会社。
しかし、丸一年が経った時、私の精神はもう限界だった。
まずは、父の死。
これは覚悟していたものだったので、まあ、こんなことを言うのはなんだが、しょうがないと思っていた。
次に、上司からの叱責の多さ。
入社して二ヶ月の時に、上司からこう言われた。
「すだれさん。貴女、友達いないでしょう」
いや、います。
言い返そうと思ったが、
もしかして、そう思っているのは私だけか?
考えた瞬間、目の前がぐるぐると回り、私はみっともなく、「いや、あ、あ、」とボタボタ涙を流すことしかできなかった。
上司は何かにかこつけて、「貴女は人の気持ちを考えられない」「発言が上から目線」「態度が悪い」「見た目がダサい」等々、まあよくこんなに出るものだという程、様々な言葉で私の心を削った。
極めつけは、私の忌引き明けに言い放った、
「親が死んだからって、仕事を放棄していい訳じゃないんだけど」
という言葉。放棄などしていないつもりだったし、重要な案件は先輩にお願いをしていた。
年が明けて、私の担当が急に変わった。上司も変わった。
そうか、私が、仕事ができないから、ついに捨てられたのか。
私の死にかけた心が救われることはなかった。
消えてしまいたい。そう思った時に見えた一筋の希望
一年目の終わりに新人研修があり、希望する者は人事と面談ができた。私は縋る思いで「面談したいです」とメールを送った。
「まあ、あの人はそういう人だからしょうがないね」
開口一番、それ。
「え?」
「私もその人の下にいたから分かるよ。けど、担当変わったんでしょう? 良かったじゃない」
「あ、え……。はい」
何も言うことができなかった。
「じゃ、面談は終わりでいい?」
と聞かれ、納得がいかないまま「はい」と答えた。
部屋に戻る道すがら、もはや涙すら出なかった。
誰も私を救ってくれないし、もう誰も信じない。
この世は汚いし、私はこの世に向いていない。
もう死んでしまおうか。そう考えていた。
そんな時だった。
「お、佐藤じゃないか」
ちょうど目の前に、人事部の逢見さんが立っていた。
逢見さんは私の父くらいの年齢であろう、優しいおじさんである。新入社員研修の時に、私を車に乗せてくれた、という記憶しかない。黒塗りの高級車に乗ったのは、後にも先にも、それきりである。
「なんや、面談だったんか?」
「あ……はい。そうです」
「そうかー。気をつけて戻ってな」
「逢見さん、あの」
逢見さんに話を聞いてもらいたい。ふと、そう思った。しかし、人事と面談をした後に、また人事と面談なんて、許されるのだろうか。逢見さんは嫌な気をしないだろうか。そして私と逢見さんは、そこまで仲が良いわけではない。一度車に乗せてもらっただけだ。
首を傾げる逢見さんに、私は勇気を振り絞って、
「私と面談してください!」
と頭を下げた。
私は認められたかった。第一志望で希望を持って入社した会社に
「つらかったなあ」
面談は私が頭を下げた次の日に行った。私の話を聞いて、逢見さんは目を閉じ、何度も頷いた。
「話してくれてありがとうな」
「すみません」
このときの私は何の話をしていても、すぐに「すみません」と言っていた。
「どうして謝る?」
「こんな話、一方的にして」
「話してもらえないと分からないから、本当に良かったよ」
「しかも、逢見さんとは、別に親しくもないし」
逢見さんはゲラゲラと笑った。
「ひどいなあ!」
「すみません、でも、その……親しくないからこそ、こんな話聞かされて迷惑だろうなって思って」
「迷惑だなんて思っとらんよ。それに、そう思ったけど、俺に話してくれたやろ?」
「ああ、すみません。でも、逢見さんだったら、分かってくれるかも、って思ったんです」
「いやあ、嬉しいこと言うなあ!」
逢見さんはまたゲラゲラ笑い、そしてこう続けた。
「なあ一旦、ちょっとだけ頑張ってみないか? ああ、頑張らなくてもいいや。ちょっとだけ……そうだな、次のボーナスまで、辞めずにいるのはどうだ?」
と。
「ボーナスまでか……」
あと七ヶ月もある。
「そこまでとりあえず、何かのために頑張る、みたいな目標はないか?」
「ないです」
「それじゃあ……『俺のために辞めずにいてくれ』ってのはどうだ?」
「新入社員が辞めると困るからですか」
「違うわ! もう少し、楽しいこともあるって思ってほしいんだよ」
「ありますかね」
「ある」
言い切られると思わず、私はポカンと口を開けた。
「それに今のままじゃ、佐藤の良さが分かられないままじゃないか。そんなん悔しいわ。俺が」
「そう、ですか?」
「そう。一旦ボーナスまで。どうだ? それでも嫌なら、休んでもいいし、部署を変えることだって考えるから」
仕事は嫌だし上司とはもう話したくもないが、それでもこの会社には、逢見さんのような、温かい人間もいる。
この人を信じていいだろうか。
「逢見さんの言うこと、信じます」
「うん」
泣くのを堪えて、まだ辞めません、と頷いた。涙が落ちたのは、泣いたからではなく、強く頷いたからだ。そうに違いない。
私はただ、誰かに認めてもらいたかっただけかもしれない。そして、信じたかっただけなのかもしれない。
私が入りたいと思ったこの会社に。
あれから四年。会社を辞めようと思っていた私が認められるようになった
そして何だかんだ辞めずに、四年が経とうとしている。
「あの時辞めなくてよかった、って今この瞬間だけは思っています」
私は逢見さんに、祖母から貰った蕎麦と林檎を渡しながら、そう言った。
「だいぶ言うようになったな」
私はそれからも定期的に逢見さんと面談、という名のお喋りをしている。
「そいえばこの間は、評価会で一位やったんやろ? ほんま嬉しかったわ」
「電話までくれましたもんね」
「そりゃそうやろ! あの時『辞めたい』って泣いていたのに、二年が経てば、一位やぞ!」
逢見さんは、いつでも私を認めてくれる。
「あの時、逢見さんを頼って、本当に良かったです」
「頼ってくれてありがとうな。こんなオッサンで良かったら、いつでも使うてな」
「私も、逢見さんみたいになれるように頑張ります」
「ええ?」
逢見さんは、あの時と同じように、またゲラゲラと笑った。
「そんなんあと三十年かかるわ!」
へへ、と私も笑い返した。