読み慣れた娯楽作品とは違う、自伝的なエッセイが、違和感なく読めた

三浦綾子さんの『道ありき』が、課題図書の1冊として提示されたのは、たしか高校2年生か3年生の時だったかと思う。
本好きを自負してはいたものの、私はその頃海外ファンタジーを中心に読書を楽しんでいるような人間だったので、課題図書に挙げられるような作品は、普段私がのめり込む文体からかけ離れていて、すらすらと読み進めることができないものも多かった。
いつも提出期限の最後の方まで溜め込んでいた記憶がある。

昭和55年発行『道ありき』の著者三浦綾子さんは、熱心な教師だったが、敗戦後、それまで子どもたちに真剣に教えてきた「正しさ」に確信が持てなくなり教壇を降りた。その後は肺結核と脊椎カリエスを発病し、13年間の苦しい闘病生活を送ることになったという。
『道ありき』は、教壇を降りて以降続いた長い闘病生活の傍ら、著者が生きる意味や愛、そして信仰を自らの心の動きに合わせて記した、彼女の自伝ともエッセイとも言える作品であろう。

この作品は、それまで私が課題図書として向き合ってきた作品や、娯楽として読んできた作品とは、少し毛色が違っていたと思う。
読み進める中で、彼女の言葉が、心情が、するすると違和感なく私の中に入ってくるのだ。

いったい何故だったのか。

それは、自分の生きる理由を探す彼女の苦しみに、私が大きく共感できたからに他ならないと思う。

何を目指せば良いのか、と焦っていた自分に響いた切実な告白

彼女は闘病生活の中で、神への信仰を告白し、クリスチャン(キリスト教の信者)となった。
しかし、彼女の日々の葛藤は、キリスト教との縁をこれまで持っていなかった人であっても、共有することのできる切実なものばかりだった。

私自身はクリスチャンというわけではなかったものの、当時は、そろそろ進路という問題に向き合わなくては行けない時期だった。
決して投げやりになっているわけでもないのに、考えても考えても、何がやりたいのか分からない。何をどう目指せば良いのかが分からない。
ファイルに挟んだままの進路希望調査の紙の存在が頭の片隅にちらついた。
そんな中、課題図書の感想文の提出期限ギリギリに読み出した『道ありき』に、彼女はこのような焦燥感を綴っていた。

"わたしには、生きる目標というものが見つからなかったのである。何のためにこの自分が生きなければならないか、何を目当てに生きて行かなければならないか、それがわからなければどうしても生きていけない人間と、そんなこととは一切関わりなく生きて行ける人間があるように思う。わたしはその前者であった。
 何を目標に生きてよいかわからないのに、生きているということは、ひどく苦痛であった。(中略) 自分の存在すら、肯定できないのだ。"

私はこの文章に激しく共感した。
意味が見つからないのならば死のう、とまでは思い詰めなかったが、生きる意味がわからないというのはただ苦しかった。
貧富の格差が広がるこの世界で、日本という比較的豊かな国に生まれたが故、社会に対して明確な役割を持たないまま、生きていても良い理由が分からなかった。

それまでエッセイというものをあまり読んだことのなかった私は、ある個人の感情がここまで赤裸々に記されている文章に触れたことがなく、衝撃を受けた。

そして同時に、「あぁ、そういう人間もやっぱりいるんだ」と途轍もない安堵を感じることができた。
誰もが自分の生きる意味をしっかり手にできているわけではないのだと。

先のことが分かったわけでも、何か解決できたわけでもない。
ただこのような不安を抱えているのが、私だけではないのだ、と思えた瞬間に光が差したような気がした。

書き写した一文をお守りのように引き出しに入れておいた

既に教師として働いた経験があり、今は作家として名の知られているような人でも、同じような深い悩みを持っている人はいるのだということに安心できた。
弱い人間だと言われてしまうかもしれないけれど、私にとって、小さなろうそくの灯火のような言葉だった。
当時『道ありき』は、図書室で借りて一度読んだだけで、繰り返し読み返したわけでもなかった。
それでも本を返す前に、その小さな灯りともいえる文章を書き写しておいた。

ただ自分だけのために、そんなことをしたのは初めてだった。
お守りのようにそのメモを引き出しに入れておいた。
いつかまた不安になった時にこの灯りに出会えるように。

引き出しの整理をしたりして、何度か場所を移したそのメモは、今も取ってある。

さんざん悩みながらも、自分の生きる意味を求めて、ほんの少しは前進してきたように思う。
社会人となった今も、自分がこの先どのような人生を歩むべきか、分からなくなることがときどきある。
そんなときに、私の迷う心そのものを否定しなくてもいいと、認めてくれるのが彼女のあの悩み・苦しみだ。

昨年そのメモがふと目に留まり、当時図書室で借りたあの文庫本を自分で買い直した。
今年、改めてゆっくりと読み直したい。