1年遅れで開催された成人式に出席した。
「変わらないね」と言い合うけど、実際は変わっていると思う。大人になったのだから。
20歳の私から見た同級生たちは、背丈も伸びて、働いている子もいて、私とは違う世界で生きている。そこには、見た目を変えるほどの力が働いている気がした。

なにかと怒る教師が嫌いで、「あんな大人になりたくない」と思っていた

子供の頃から教師という大人が嫌いだった。
教師の中には、いつも何かと理由をつけて頭ごなしに怒る人がいる。小学生の時と中学生の時に出会った大人がそうだった。彼らは大人で、私は子供だった。私は「あんなのには絶対なりたくない」と強く思っていた。
しかし、常に彼らの罵倒を受け続けた記憶が、大人という概念に少し刷り込まれたのは言うまでもない。悔しいが、言葉で人をねじ伏せるような奴らも大人なのだ。

だいぶ月日が経ち、記憶の中の彼らのことを考える。なぜ、あんなに怒っていたのか。人の心を平気で切りつけるような言葉を使わせるようにした力は何なのか。
自分が暴言を受けるような環境で育ったとか、憧れの人の口調が悪かったのでマネしているとか、ストレス発散のために怒っているとか、考えればいろいろ出てくる。ただ、人の内面なんてものは透けて見えるものではないので、一つの答えを出すのは不可能だと思う。
でも、彼らにかかっていた力は1つではないはずだ。ポジティブな力がかかることもあれば、ネガティブな力がかかることもある。人からの期待、生徒を育てる責任、教師たるものみたいな力が彼らにかかっていた。その力が、彼らに怒ることを正当化させたのではないか。そして、彼らを怒る人に変えたのだとしたら。
でも、子供の私が思ったのは「間違ってる」ということだった。20歳になった今でもそう思っている。そして、当時は「なんでこの人が大人なんだろう」と常々思っていた。

変な「大人」のイメージに、「優しい」を加えた中学校の教師

私は「大人とは何か」を考えると、両親や親せき、スポーツ少年団のコーチよりも教師を思い浮かべてしまう。あまりにも変な人が多かったからかもしれない。
でも、中学3年生の時に出会った担任は、私の大人像に新しく「優しい」という言葉を入れた教師だった。

私の中学校には、日記と連絡帳が合体したような毎日提出するノートがあった。日記のお題は担任が決めるのだが、ある日のお題について、私は「いつかモンサンミッシェルを見に行きたい」と書いた。
ノートはそのまま提出し、自分が書いたことを忘れた頃、私は突然担任に呼び出された。授業態度が悪いと怒られるのではという緊張で、心臓が痛かった。
でも、悪い想像とは裏腹に、担任は「ポストカードなんだけど、これあげる」と言いながら綺麗な写真をくれた。ライトアップされた夜のモンサンミッシェルだった。
私が書いたことを覚えていてくれた嬉しさと、教師が生徒に写真をあげるというありえない状況への驚きで頭が真っ白だった。

私がどんな顔をしていたかは分からない。でも、当時の私にとって、あれは世界で一番素敵な出来事だったと思う。親切な人はよく見る。でも優しい人はなかなかいないと思う。
どっちも同じだよと言われるかもしれないが、私は分けて考えたい。分けて考えれば、人を見る時の視点がきっと違ってくると思うからだ。

勉強ではなく好きなことの話もした教師を、「大人」だと思った

担任は、優しかった。初めて優しい大人を見た瞬間だった。この出来事がきっかけだったのかは覚えていないが、担任とは漫画や音楽といった学校以外の話もしていた。
勉強ではなく、好きなことの話を大人とすること。それは、私にとって新鮮で、一人の人として私を見てくれているという気持ちにさせてくれた。
私は担任を「大人」だと思った。めちゃくちゃな思考を持つ人ばかりを見すぎたから、余計にそう思ったのかもしれない。それでも、真っ直ぐに私を見て、こんなに丁寧に接してくれる人は他にいなかった。
だから、私が考える大人像には、間違いなく担任の姿が思い浮かぶ。私もそういう人になりたいと思ったから。

20歳の私は、相変わらず大人が好きではない。成人してるのによく言うよなとも思うけど。大学3年生になり、就活を始めた。
正直行きたい企業なんてない。人事の人を見ているだけで、なんだか嫌な大人に見えてくる。私はずっと大人になりたいと思っていたが、それは違ったと最近気づいた。
ひどい話だ。友達に言われた「変わらないね」がフラッシュバックする。
やっぱり、私はまだ大人になれないのか。だったら、私が変われるように、誰か力をかけてほしい。年齢だけ重ねるのは嫌だから。