「死にたい」などと毎日メールを送ってきた中学校時代の友人

高校1年生のとき、私のガラケーには一人の友人から毎日メールが来ていた。
その友人とは中学の同級生。名前はNとしよう。
Nとは高校は別で方向も違ったので通学途中ばったりなんてこともなく、進学してから直接会うことはなかった。わざわざ機会を作って会うほど親密な関係でもなかった。当時はなかったが、その数年後にできた中学時代仲がよかった友人たちのグループLINEにもNの名前はなかった。

でも仲が悪かったわけではない。中学2年生のときのキャンプは同じ班だった。Nは普段は別の友人2人と一緒にいたが、どこか不安定で、関係がこじれたときは私たちと行動を共にしていた。私は友人A、Rとよく一緒にいたが、グループという感じでもなかったので、ときどきNが加わることに直接何か言う人はいなかった。でもRはNの行動にどこか不満げだった。

高校へ入ってしばらくたった頃、私はAと会った。そのとき、Aの元にもNからメールが来ていたことを知った。でも今は止まったらしい。
「気持ち悪かったからメールやめてって言ったの」
嫌なことがあっても「いやだ」と言えないタイプだったAの強い言葉に私は息をのんだ。でもその気持ちが痛いほどわかった。
「死にたい」「リスカした」「死んでも誰も悲しまない」
こんな言葉を毎日目にしていたら、誰でも自分がすり減ってしまう。

重すぎた内容に関係を絶った友人もいたが、私にはできなかった

後から知ったことだが、NはRにはメールを送っていなかったらしい。そこは人を選んでいたわけで、Nは何らかの信用があって私にメールをくれていたのだと思う。それを理解した上でなお、その糸を切ってしまいたい気持ちに何度も駆られた。
高校生の私には重すぎた。Aはそれに耐えかねて糸を切った。それはA自身を守る上で懸命な判断だったと思う。
でも私にはできなかった。当たり障りのない言葉を返し続けた。抵抗できなかったとか、受け止める優しさがあったとかそんな理由ではない。

当時、「きみの友だち」(重松清/新潮社)を読んで人生で初めて小説で泣くという経験をした私は、重松清さんの作品を探しに本屋に向かった。そのとき手に取ったのが「十字架」(重松清/講談社)だった。
いじめを苦に中学2年で自殺をした少年。その遺書に名前が書かれていた4人の同級生がその重みを背負いながら20年どう生きたかを綴った物語だ。   
主人公の名前は『親友になってくれてありがとう』という言葉と共に遺書に添えられていた。でも本人は親友というほどの関係ではなかったと感じていた。身に覚えのない親友として遺書に名前を出された少年が、その事実に困惑しつつも、亡き人の思いを受け止め、迷い傷つきながら進んでいく様子が淡々と描かれていた。

本を読んで自分と重ねたことで、私も「十字架」を背負ってしまった

なんとも言えない読後感だった。出会えてよかったと思いつつ、読んでしまったことを後悔もした。そこまで仲良くなかったと思っていた人から実は頼られていて、人生の選択肢を喉元に突き付けられている感覚が完全にリンクしてしまった。
Nが死にたいと言っていた原因は高校生活にあったらしいので、いじめの傍観者であった主人公と立場は違うが、たとえ遺書に名前が書かれなくても、私は主人公と同じ人生を歩むことになるかもしれないと思うと怖くなった。だから、どんなに苦しいメールでも返信し続けた。Nのためというより、自分が主人公になりたくなくて必死だった。
人生で初めて命の重みを意識した。

この本を読んでいなかったら、私はAと同じく糸を切ってしまっていたかもしれない。そうしたらどうなったかは誰にもわからないが、もしかしたらNは今この世にいなかったかもしれない。そう考えるとこの本はとても大きな救いを与えてくれたのだと思う。
でも同時に、私は手に負えない大きさの十字架を背負うことになった。

Nのメールに対して当時はマイナスな感情しかなかったが、今は送ってくれてよかった、こんな私でも頼ってくれて本当によかったと思っている。誰だって苦しいときは自分を犠牲にせずに、所構わず助けを求めるべきだ、求めていいと心の底から思っている。
なのに、親しくない人から頼られるのは御免だという相反する気持ちも否定できない。相談を受けて一度関係者になってしまったら、この人とは合わない、距離を置きたい、この関係を続けると自分がもたないと感じても、常に主人公の背負った十字架がちらついてしまって身動きが取れなくなるからだ。
死には誰も勝てない。でも死を人質に関係を継続し続けるのも辛い。
この本に出会っていなかったら、仮想の罪悪感に悩まされることもなかったのにと本に責任を押し付けそうになっては、この本のおかげで私は間接的な人殺しにならずに済んでいるのだと言い聞かせる。今はこうしてバランスを取るしか策がない。

本の帯には「背負った重荷をどう受け止めて生きればよいのだろう?」とあった。
この問いと向き合いながら、十字架との距離感を探っていくことにする。