今の「私」を作った本。それは間違いなく、嶽本野ばらさんの「下妻物語」だ。
ロリータファッションが大好きな高校生の桃子が、茨城県下妻市に引っ越してくるところから物語は始まる。

高価なロリータファッションを購入するために始めた個人販売で、下妻育ちのヤンキー、イチゴと出会う。フリフリヒラヒラのロリータ服の桃子と、改造バイクに乗り、時代遅れのスケバンスタイルレディース暴走族のイチゴ。見た目も趣味も価値観も違う2人だが、少しずつ奇妙な友情が芽生えていく……というのが、この物語だ。

人間関係や自分の立ち位置に悩んでいたときに読んだ「下妻物語」

この本を手に取ったきっかけは、私自身が茨城県下妻市出身だからだ。
関東平野のど真ん中、ひたすら田んぼが広がるのどかな田舎町だけど、少しヤンキーが生息していて、夜はどこかでバイクのブオオオンという音がする。
関東地方だし、距離で考えれば東京に近いにも関わらず、交通網の悪さゆえに(電車は1両・1時間に数本・バスはほとんど機能していない)東京へのアクセスはなかなか難しい。買い物もデートも、基本イオンで済ます。
そんな田舎町では、桃子もイチゴもきっと浮いていただろう。そんなことが容易に想像できた。

主人公の桃子は、ハッキリ言って性格が悪い。ロリータファッションを購入するために、悪気なく父親を騙してお金を巻き上げる。借りたものは返さない。「世の中ナメて暮らしていくというのが、私のテーマなの」は作中のセリフだ。

この話を読んだとき、私は小学生で、人間関係や自分の立ち位置に悩んでいた。1学年1クラスしかいない小さな小学校で、同学年の女子は10人とちょっと。その中で、「親友」の組み合わせがあった。
「親友」は、例えばバスの席で隣同士に座るとか、同じ係に立候補するとか、2人組で行動するときにいつも一緒にいる、「特別な友人」のことだ。その2人は大体クラスの中で同じ立ち位置で、好きな遊びも、持っている意見も同じ。

「親友のいない私」は、団体行動の中でいつも1人余っていた

私には「親友」がいなかった。もともと1人で本を読んだり、絵を描くことが好きだったし、1人行動をすることは苦痛ではなかった。でも、小学生の団体行動の中で、いつも1人余る状況は堪えた。自分が悪いのだろうか、という気持ちになった。
少し年齢を重ねれば分かったが、そうした組み合わせは、本当にその時ときだけのものだった。中学校に進学すると、「親友」同士も別のコミュニティに所属して、もう言葉を交わさなかったり、ときには敵対していたりした。お互いが1人にならないための策だったと、振り返れば分かった。

でも小学生のとき、そのときは分からなかった。いつも余る私を見て、教師は、周りのクラスメイトは、「かわいそうな子」という目で見ていた。自分のことが惨めに思えた。

桃子とイチゴの2人は、そんな私に上を向かせてくれたと思う。
桃子は性悪で、友達と言える人はいない。けれど、自分で決めたルールに従い、強く守って生きている。バスがほとんど機能しない下妻で、それでもロリータファッションには似合わないからと自転車に絶対に乗らない。必ず歩く。
目立つ服装のせいで、追いかけられて転んで鼻血を出しても、絶対にロリータファッションを身に纏うことをやめない。寂しいからと気の合わない人間と話すくらいなら、1人で本を読んだり音楽を聴いているほうがいい、と話す。

「1人でいることは恥ずかしいことではない」という言葉に救われた

そんな桃子とは対象的に、イチゴは仲間との繋がりを大事にするタイプだ。レディースのチームの人間を信頼し、仲間と行動を共にする。
考え方もルールもまるきり違う2人は、お互いのことを馬鹿にしながらも、決してお互いの領域を侵したり、傷つけることなく関わっていく。
「こいつは、何時も1人で立ってるんだよ。誰にも流されず、自分のルールだけに忠実に生きていやがるんだよ。群れなきゃ歩くことも出来ないあんたらと、格が違うんだよ」
桃子を庇ったために、所属するレディースのチームを敵に回したイチゴ。桃子について、レディースの総長にこう言い放つ。

1人でいること、自分でいることは、何も恥ずかしいことではないこと。価値観の違う人同士が、つながることができるということ。イチゴの言葉が、何度も何度も私を救ってくれた。
もちろん現実にはいない2人だけれど、それは分かっていたけれど。同じ下妻の地に、ひょっとしたら2人がいるかもしれない。それが当時の私の支えだったし、今の私が堂々と生きる下地を作ってくれたように思う。