私のふるさとは、「場所」ではない。「映画」の中にある。
「ふるさと」と聞くと、実家や通っていた小学校、田舎などを思い浮かべるひとが大半だろう。

私のふるさとについて疑問を感じるかもしれない。
だから、まず生い立ちから説明させてほしいと思う。

いじめを受けた学生時代。18歳のとき、プチンと何かが切れた

23年前、私は生まれた。
暴力をふるう父と、それでも父を愛している母とのあいだに。
弟が6年後に誕生するまで、唯一こころを許して話せるのは庭にいたダンゴムシ。
彼ら(彼女ら)はいつだって穏やかだった。

「どうしておまえはブスなんだ?」と、悲しいことばを吐いたりしない。
飲み物をこぼした罰に、1ヶ月私を空気と見なすこともない。
ダンゴムシといる時間は、小さな私にとってオアシスも同然だった。

そんな幼少期を過ごした私は、小・中・高で俗に言う「いじめ」を受け続けることになる。
小学3年生で靴に「死ね」と書いてある紙を発見したのを皮切りに、腕やお腹をど突かれたり、教科書を5冊・外履き・内履き・体育着を盗まれたり、「キモ子」「ブス子」とあだ名をつけられたり……。
とうとう18歳のとき、プチンと何かが切れたようになにもかも嫌になった。

ここじゃないどこかに行きたい。
私の居場所はここじゃない。
ここじゃないどこかに、居場所がきっとある。
このままじゃ、死んでしまう。

逃げるように始めた1人暮らし。感じた幸福は長く続かなかった

その一心で家を飛び出し、家賃2万7千円のアパートを借りて逃げ込むように引っ越した。
そこでの日々は、快適だった。
ちゃんと呼吸ができる。誰かの顔色をうかがわなくて済む。自由に、好きなことができる。
うれしかった。

それしか言葉が出てこないくらいに、うれしかった。
でも、そんな幸福は長くは続かなかった。
心のまんなかにポッカリ穴が空く感覚に襲われるようになっていったのだ。

何を食べても飲んでも、虚しかった。
「おかえり」って、迎えてくれる家族がいること。
のびのび育ってこられた幸運を、当たり前と思える人間がたくさんいること。

そして、恋をして、結ばれて、子どもができて……と、普通のしあわせを普通に手に入れる人間がたくさんいること。
そういうひとを見るたびに、どうしようもなく寂しくなった。
ずるい、と思った。私はずっとずっとひとりぼっちなのに、って。
だんだんと、心が枯れていくのがわかった。

毎日熱が出た。ベッドから起き上がるのも難しくなった。バイトも行けなくなった。
家賃や光熱費で、十数万円の貯金は底をつきかけていた。
元気を出そうにも、まず動くことすらできない。
通販サイトでショッピングをするにも、お金がない。

動画サイトの1ヶ月無料お試しキャンペーンを知り登録。出会ったのは…

そんな19歳のある日、私に光が差し込む。
ネットサーフィンをしていたとき、目についた広告。
動画サイトの「1ヶ月無料お試しキャンペーン」のお知らせだった。

……無料?!
私は飛びついて、すぐ登録した。
そして、気づいた。
その日はクリスマスだったのだ。
大きく打ち出された「クリスマス特集」のなかにあった作品。
そう、これこそ私のふるさと。
「SEX AND THE CITY」という映画だ。

舞台はニューヨーク。
主人公のキャリーは、アラフォーの女性で人気コラムニスト。
何もかも得ている彼女だけど、数多くの葛藤を抱えてきた。
大好きでたまらない恋人は、結局自分を選んでくれなかったこと。
家庭や子どもや、周りが手に入れているものが自分にないこと。
男から人気のありそうなサラサラヘアより、くるくるパーマの方が自分に似合うこと。
それでも、キャリーは何度も立ち上がる。

自分と向き合って、親友たちといっしょに泣いて、だいすきな服をクレジットカードが止まるくらい買って。
詳細はネタバレになるので言えないが、そうして彼女は彼女らしく、彼女だけの幸福の形を見つけていくのだ。
まわりに冷たい視線を浴びせられても決して負けないその姿に、ストーリーに、私は見入ってしまった。

なんてチャーミングなんだろう。
いつも強い自分でいなくたっていいんだ。
型にはまれない生き方でも、それでいいんだ。
今まで味わったことのない安堵感のようなものが、私を包み込んだ。

映画は場所ではなく心の中に存在する。私の「ふるさと」だ

そして、約4年が経った。
さすがに「SEX AND THE CITYを観た瞬間から、人生ずっとしあわせです!」なんて夢みたいなことは言えないけれど。

少なくとも、ベッドから起き上がれるようにはなった。
泥みたいに重い体を引きずって働いていたバイト先で、親友ができた。
掛け持ちしていたもうひとつのバイト先で、「社会不適合者!」と怒鳴られた……が、それをきっかけに自分の不得意分野がはっきりした。
「社会不適合者」と呼ばれるひとが多いクリエイティブの会社を受けて、採用してもらえた。

変わり者であふれた職場なので、まわりから浮かず前より楽だ。
でも、ここも「ふるさと」と思えることはないだろう。
どんな場所でも、どんなときも、私は十字架を背負っているような気がしてならない。

「愛されなかった」という、十字架。
「信じるのが怖い、できない」という、十字架。
埋められないその寂しさに、つねに追いかけられている。
結局、背負っているものは変えられないのだ。
ある場所を信じて、ある場所で愛されて、ある場所で自由に笑って。
そういう経験がない私は、きっと「ふるさと不適合者」である。

この世界に、映画があってよかった。
映画は「場所」ではなく「心の中」に存在しているものだから、「ふるさと不適合者」の私も「ふるさと適合者」になれる。
だから、私のふるさとは「映画」なのである。
再生するたび、「おかえり」って温かく迎えてくれる存在。
私は「ふるさと」をこころのお守りに、前よりかろやかな足どりで今日を生きていく。