メンヘラという言葉がまだ世間一般に知れ渡る前、私にはメンヘラの彼氏がいた。高校生だった当時、初めての彼氏が嬉しくて、私は彼に進んで侵食されていた。

私は衝動的な彼に侵食され、飼いならされていった

まだガラケーが一般的だった私たちの連絡方法はメールだった。家に着くと彼からメールが来る。
「ちゃんと家に着いた?」
最初のうちはただただ嬉しかった。本文にハートマークが3つ並んだだけのメールでも、「大好き」と伝わっていた。
ただ、私の返信が遅れると、追うように「どうしたの?」とメールが届き、それにも返さずにいると電話が来る。次第にその感覚は短くなっていき、私は家に帰っても携帯を肌身離さず持っておくようになった。

私は5分くらいでメールを打ち、彼は1分で返信する。内容はハートマークだけだったり、当たり障りのない会話。当然、勉強どころか課題すらままならない。
また、朝も一緒に登校したいと言い、昼も一緒に食べたいと言い始めた。
正直なところ、私は友達との時間も大切だったが、断ると彼の機嫌を損ねるのでなるべく言うとおりにしていた。

彼は人一倍傷つきやすく、傷つくと衝動的になる一面があった。
ある時は数日ほど学校を休み、音信不通になり「死のうとして他県まで自転車で行ってきた」と言い、ある時は「むしゃくしゃして公園で絡んできたヤンキーと喧嘩をしてきた」と言った。他人の自転車を勝手に使用し、窃盗罪で停学になったこともあった。

いつしか私は漫画のヒロインになった気分で、彼を支えられるのは自分しかいないと思いあがっていた。
しかし、彼のやり場のない感情の矛先はいつしか私に向くようになっていった。何か機嫌が悪くなると、私と比較し自虐するようになった。

「お前はいいよな。友達がたくさんいて、家族とも仲が良くて、悩み事がなさそうで」
彼から逃げようとしなかったわけではない。ただ、別れ話を切り出すと撤回するまで力尽くで家に帰してくれなかった。走って逃げても追いつかれ、「お前を取り戻すためにこれ以外の方法が思い浮かばない」と公衆トイレに連れ込まれそうになったこともあった。

繰り返すうちに、面倒くさくなってしまって、「私が彼の機嫌を損ねなければ」とか「私が別れ話をしなければ」と思うようになった。そうすれば、機嫌の良い彼と楽しくやっていけるのだから……。
私は彼に侵食され、飼い馴らされてしまっていた。私のあたりまえは彼によって、大きく歪曲していた。

自虐行為に脅迫。泣きながら相談した母は明るく答えた

そんなある日、事件は起こった。学校から帰る電車の中で、模試の自己採点をしていた時のことだった。
私はいつもより少しだけ結果が良く、それを見た彼が不機嫌そうに言った。
「なんでずっと俺といるのに、お前は結果が良くて俺は悪いんだよ!」
そして彼は筆箱からシャーペンを取り出し、カチカチと芯を数センチ出すと、勢いよく彼自身の手の甲に突き刺した。

カチカチ、グサッ、カチカチ、グサッ。折れた芯がコロコロと転がっていく。私は目から涙が溢れて、何も言えず、彼の自傷行為をただ眺めることしかできなかった。
「俺はここで降りるから、ついてくんな」と目的地より前の駅で、彼は私を置いてひとり電車をあとにした。今、彼をひとりにしてはいけないと思ったが、あまりのショックに疲れ果てて、私はそのまま帰った。

親に泣いたのがバレないように気を使いながら「ただいま」と言うと、何も知らない母は「おかえり。模試おつかれ」と返した。それだけで涙が溢れだしてしまいそうだった。
涙を堪えようとしていると、携帯電話が鳴った。着信は彼からだった。

出ると、彼は泣きながら私に、「会いたい。戻ってきて。戻ってきてくれないと死ぬ」と訴えた。
どうしていいか分からなかった。高校生にして、まさかこんなドラマのようなセリフを吐かれるだなんて。困惑していた。
彼は何をしでかすか分からない。本当に死ぬかも、と思った。私のキャパシティを超えていた。
そしてやっと、助けを求めた。

「お母さん、彼氏が、今会いに来てくれないと死ぬって言ってる……」
「そんなん行かんでええ」

母は明るい声だった。
「ほんまに死んだって、それは彼の選択であって、あんたのせいとちゃう」

か細い声で「うん」と返事をして、お風呂でひとり静かに泣いた。
彼を変えてしまったのは自分のせいだと心のどこかで思っていたのかもしれない。
その翌日、学校へ行くと彼は元気に登校していた。
彼のことを先生に相談し、電話で別れたいと伝えた。電話越しに彼は、「お前の幸せをぶっ壊す」と最後まで私を敵視していたが、幸いにも冬休みに入り、彼と顔を合わさなくなった。
休み明けには彼の怒りがおさまっていたのか、私に危害を加えることはそれ以降一度もなかった。

周りを信じられずに、結果自分を責めていた日々に気づく

人に羨ましがられるようなことは簡単に言えるのに、自分が辛い思いをしていることを人に伝えるのは難しい。親しい人なら尚更、心配をかけたくないし、失望されたくない。

彼のことを友達に相談できなかったのは、異常とも言える彼を選んだ自分が恥ずかしかったからか、同情されたくなかったからか。
そんな彼を好きになった私を、周りがどう評価するのか怖かったからかもしれない。私は自分の弱さをさらけ出せなかった。

機嫌を損ねた彼が、いつも言うセリフがある。
「お前はいいよな」
彼は私のせいで変わってしまった。だから私が我慢して受け入れればいい、そう思い混むことでなんとか合理化しようとして、結局のところ自分を苦しめていた。

彼だって実際のところ、私のことをちゃんと見てはいなかった。でなければ、「お前はいいよな」なんて言えたはずがない。私は彼だけを信じて、周りを信じられなかったのだ。
その証拠に、彼の話をして私を責めたり否定した人は、誰一人いなかった。