父親と会えなくなり、15年が経とうとしている。
今、どこに居るのかも生きてるかも分からない。
パパっ子だった私は、両親の離婚で母と県外に行くことを選んだ
我が家は私が物心つく前に両親は離婚していて、母、私、おばあちゃん、おじいちゃんとの
4人暮らしだった。
父親と共に暮らしていた記憶はない。
けれど私が赤ちゃんの頃の写真を見ると、育った家で父と犬が戯れている様子が映っている。
その写真を見て、ちゃんと家族だったんだと思い知る。
私はかなりパパっ子だった。
土日は必ず父親と遊んだ、いろんな場所へ連れてってもらい、おもちゃも沢山買ってもらった。
小学校へ入学したらプリペイド携帯を買ってくれて、毎晩、父親とメールをした。
当時SMAPのらいおんハートが流行っていて、メールの最後にライオンマークとハートマークをつけるのがお互いの決まりだった。
しかし私が9歳の頃、母親が再婚を決めた。
再婚相手が県外の人だったため、母親と共に県外に行くか、父親と暮らして残るか、そんな人生の選択を迫られた。
パパっ子だったのにも関わらず生活は母親としていたため、父親と暮らす生活が想像出来ず共に県外へ引っ越しをした。
母は再婚相手と1年で離婚。父とまた遊べると嬉しくなったけど
私からその決断を父親に言った。
すると目を潤ませて私の頭を撫でながら、「パパはお前と暮らしたいよ」と呟いたのを今でも覚えている。
引越した後も父親は県外まで来て、月に一度、遊びに連れていってくれた。
母親の再婚相手はかなりのDV気質で、「パパと呼ばないと教育しないぞ」と怒鳴るような人だった。
当たり前だが、私の父親は1人しかいない。
パパと呼べる訳もなく、ストレスの日々だった。
なので月に一度の父親と会える時が楽しみで仕方なかった。
そして再婚相手のDVの酷さに一年ほどで母親は二度目の離婚。
私はやっと解放される、という思いと、また父親と沢山遊べる嬉しさがあった。この一年は私にとっても母親にとってもすごく苦しい時期だったと思う。
弟が生まれたことは唯一、実りのあることだった。
しかし、父親とは中学入学を境に音信不通になり、会えなくなった。
携帯代もずっと父親が払っていたのだが、急に使えなくなってしまった。
会えなくなった父へ。私は父親が大好きで、世界でオンリーワンの存在
父親が住んでいたアパートを訪ねたけれど、父親は出て来なかった。
ドアノブに携帯電話と手紙を掛けて、数日後またアパートへ行ったこともあったが、その荷物はそのままドアノブに掛けられたままだった。
当時は何も分からなかったから、嫌われちゃったのかな…...と思うだけだった。
今大人になり思い返すと、借金があったのかもしれないし、仕事を辞めたのかもしれないし、いろんな理由が思い浮かぶけれど、命さえあればそれでいい。
どうか生きていてほしいと願う。
私は両親の離婚理由を知らなかった。
「ママはパパと暮らすと病気になっちゃうの」なんて子供騙しの理由を言われ、大人になるまでそれを信じて来たのだが、母親に思い切って聞いてみると、お互いに大切にしてるものが違ってそこから価値観のズレが大きくなってしまったらしい。
それでも私は父親が大好きで、世界でオンリーワン。
パパ、私は成人したよ。
成人して6年も経ったよ。
振袖姿を見せたかった。でもまだ結婚はしてないから、ウエディング姿はチャンスがあるかな。
もし生きていなくても、私はあなたを忘れない。
私の中で永遠に生き続ける存在が「父親」だから。