千葉の田舎街。とある中小企業で働くこと10年。アラフォーになってやっと役職が付いた。
この組織では決して遅いほうではないが、役職手当ては月たったの5000円。マッサージにさえ行けない額に愕然とし、「役職いらないのですが」と言って当時の上司に苦笑いされたのを思い出す。

未だ残るお茶汲み文化。なんで私にばかりに頼むの?

役職が付いたところで、部署では後輩すらいない万年下っ端。接客、営業、事務となんでもござれ。そしてそこに「お茶汲み」が加わればコンプリート。そう、我が組織にはまだお茶汲み文化が残っているのである。
「お客様が来たから、お茶いれてくれる?」
どんなに忙しく事務作業をしていてもお構いなしに言ってくる上司。「空気を読まないことが出世に繋がるのですね!お見事!」と心の中で毒づきながら、「はーい」と偽物の笑顔で給湯室に走る。
さ、急須に雑巾の絞り汁を……と、入れられるわけもなく、しかしせめてもの抵抗で多めに茶葉を入れる。「君の煎れてくれるお茶はいつも美味しいからつい頼んじゃうんだ」なんて、気持ちとは裏腹の反応をいただいてしまい、心の中の私は頭を抱え膝を付く。

私には役職がついているの。忙しいの。なんで私にばかりに頼むの?新人だって、パートさんだっているのに、なんで私に頼むの?なんで私がお茶汲みしなくちゃいけないの?私が優しいから?話しかけやすいから?今どきの若者は「それは私の仕事じゃありません」って言いかねないから?パートさんには頼みにくいから?

コロナ禍で「女からの解放」。できるだけ心地よく過ごす日々

そうか、私が女だからか。
「お茶いれてくれる?」という言葉の裏に、「身分をわきまえろ。女なんだからお茶汲みは当たり前なんだよ。黙ってやればいいんだよ」という言葉が透けて見えてしまう。
実際に言われているわけでは決してない。決してないのだが、聞こえてくる。
そのたび、自分が女であることを呪う。女として生まれてきたその日から、「女という身分をわきまえよ」という囁きが、至るところから聞こえるのだ。

「コロナ禍」は私の味方をしてくれたところがある。そう、お茶汲みの当面廃止だ。給湯室ではガッツポーズを隠しきれなかった。
コロナ禍前に付き合っていた彼氏とは自然消滅していたし、爪の先まで手を抜かず、パックして、メイクして、オシャレする必要もない。
心から会いたい人なんていないことに気づき、気の向くまま、自分の思うままの休日を過ごすことが出来ている。寝ぐせ頭で部屋着のまま一日過ごしてたって怒られないし、スッピンで一人、熱唱しながらのドライブをしたって恥ずかしくない。

使い捨てマスクとともに、「女」の義務や常識を捨てたら楽になった

女からの解放、ともいうべきか。一人の人間として、今を必死に生きる日本人として、出来るだけ心地よく過ごせるような選択ができる。
「女なんだから」という言葉に続くであろう、世間に背負わされている義務や常識を、使い捨てマスクと一緒にゴミ箱へ捨て続けたら、案外、簡単だった。

マスクしちゃえばアイメイクだけでいい。冬だし、誰かに素肌を見せる予定もないし、少しくらいカサカサしてたって(肘が粉吹いてたって!)関係ない。
カミソリ負けにもめげず処理していたムダ毛も今じゃ生き生きしてて、なんなら「生まれたままの自然な姿もいいいんじゃない?」なんて自己肯定が始まった。
女であれ、わきまえよ、なんて〇〇喰らえだ!

ただ、女を武器にして、ときに弱々しく、ときに猫なで声で周りに助けを求めたり力を貸してもらっているのも事実。女に生まれたんだから、女をわきまえず、しかし女を使って生きてやる。
そう、私は女なのだから。