病院って、貴族のお屋敷みたい。
20世紀初頭の英国貴族の大邸宅が舞台の某海外ドラマを観ながら、ふと思った。

病院という組織は太古の昔からピラミッド型の縦社会だ。
最近では、みんなが同じ制服を着用し、患者には誰が医師で誰が清掃担当者なのかわからないというフラットな病院もあるようだが、まだまだそんなところは少数派。白衣を着た医師が頂点で、その下に看護師などの資格を持ったコメディカルたちが続く。

バランスのいい勤務体制、同僚8割が女性。充実した下っ端メイド生活

経営と現場の両方をこなすトップダウンの院長は、家長の伯爵。伯爵夫人は院長の右腕の看護部長。伯爵家の子どもたちは常勤医師たちで、全使用人をまとめあげる執事のポジションは事務長……。そんな風に病院で働く人々をヨーロッパのお屋敷で働く人々になぞらえていくと、資格もなく、医師のとなりでせっせと次回の診察予約を取る事務の私は、さながら最下層の小間使いといったところだろうか。

だが、そんな下っ端メイドも慣れれば充実した生活だった。やりがいのある仕事内容、プライベートの時間も確保できるバランスのとれた勤務体制、そしてなにより、同僚の8割が女性という構成は、女子校育ちの私にはとても働きやすい環境だったのだ。

よく「女社会は大変」と言われるが、私には合っていた。
化粧をサボっても何も言われないし、セクハラを受けても守ってもらえる。生理や子どもの体調不良で誰かが急に休んでも、お互いさまだという空気がある。仮に会議が長引くことがあっても、それについて「女だから」とは言われない。
なぜなら、その場にいる全員が女だからだ。
ここには「少数派の女性」は存在しない。わきまえる必要なんてちっともない環境だったのだ。新型コロナの前までは。

感染拡大に伴い、増えていく患者。感染とミスの不安に怯えている

2022年1月現在、オミクロン株の感染拡大に伴い、毎日沢山の患者たちが病院に押し寄せている。その数は一日数百人。診察や検査に加え、その膨大な事務処理に、連日夜遅くまで事務員たちが残って作業をしている。
検査結果を伝える電話をかけ続けて声が枯れ、毎日変わるオペレーションに疲弊し、感染とミスの不安に怯えている。日夜くたくたになりながら、仕事をしている。

一日中、電話が鳴り止まない。
もしもし、◯◯病院でございます。「ずっと待ってるのに保健所から連絡が来ないんです」。保健所もパンクしているみたいですね。
プルルルル、検査の結果は陽性でした。「忙しい中ありがとう」。ご体調が悪くて大変でしょうに、こちらこそありがとうございます。
プルルルル、はい、◯◯病院です。「ワクチンを打ちたいのに、予約が取れない。在庫がないらしいが一体どうなってるんだ」。どうなってるんでしょうねえ、本当に。

家に帰って寝る以外のことを最後にしたのはいつだろう。金曜も働いて、一日休んで日曜に出勤する。ウイルスも週休二日を導入したらいいのになんて、ちっとも面白くない冗談を半ば本気で考えながら。

女だからとわきまえなくていい真っ白なお城。でも私は知っている

窓のすき間から白い月が見える。患者のいない診察室で、同僚の女性たちが電話をかけ続けている。
ここは貴族のお屋敷みたいだ。外界から隔離された、たくさんの女たちが生き生きと働くお屋敷。女だからとわきまえなくていい真っ白なお城。
でも私は知っている。
女性ばかりの職場なのは、職員の大部分を占める看護師と事務員の大半が女性だからだ。そして看護師以外の医師、薬剤師、事務、それらの主任は男性ばかりであることも知っている。
看護部にシングルマザーの職員が多いことと、事務員にパートや派遣社員など、夫の扶養内で働く職員が多い理由も知っている。
求人サイトに載っている「子育てのしやすい環境」の文字の理由も知っている。子どもって、すぐ熱出す生き物だもんね、同じ女だからわかるよ。保育園がコロナで休園して一週間お休み?いいのよ、そんなの母親同士、お互い様。
いつまで経っても実家暮らしをやめられないこともわかっているし、顔も知らない同僚の夫の会社が私に勝手にフリーライドしてるのが悪いだけで、同僚は悪くないこともわかっているし、若い女が全員、いつか男と結婚して、全員子を産むと信じていた時代がかつてあったこともわかっている。全部わかった上で、ここで働いている。

わきまえない女でいられるこの場所は、わきまえることで成立している

陽性者の自宅まで薬を配達してくれる薬局を探していたら、受話器から聴いたことのある曲が流れてきた。保留音のピコピコした音に似合わない、壮大で美しいそのメロディに、唐突に涙がこぼれ落ちそうになって、その瞬間、はっきりとわかった。

もう辞めよう。

でもすぐに上司の言葉が頭をよぎる。ここが地域の医療を支える最前線だ、と。今、病院が踏ん張らなかったら、患者さんたちは行く場をなくしてしまう、と。
わかってる。わかっているけど、そうしているうちに、母親じゃない女たちは、夫のいない女たちは、ポロポロと子どもの乳歯が抜けるように、一人、またひとりと辞めていった。みんな旅立っていった。家賃が払えて、バスが走っている時間に帰れる新しい環境へ。

女性ばかりのユートピア。わきまえない女でいられるこの場所は、同時にわきまえる女でいることで成立している。
新しい場所では、わきまえずに生きていく。