私は身のほどをわきまえている。
だから、生まれてこの方、高価なブランド物の服やバッグを身に付けたことがない。
かつての日本人、バブル期までの日本人は、「一億総中流」「みんなと同じ」で安心していた。
一方、私はと言えば、幼い頃から「みんなと同じ」は、カッコ悪いと思っていた。
そういう意味では、普通じゃなかった。

小学生の頃、ほとんどの女子がミニスカートだったのに、私はロングスカートを好んで穿いた。
ランドセルも「ダサい」と思っていたので、ほとんど背負わず、手提げ鞄で通した。
その当時「ダサい」という言葉はなかったが、「ダサい」という言葉が一番しっくりくる。
「みんなと違うことをして、変わった子だよね」と思われていただろう。

バブル期、時代と逆行した生活を送り、ブランド物は持たない

バブル期に20代になった。
世の女性たちは「合コン」「結婚相手は3高(高身長・高学歴・高収入)」と浮足立っていた。
猫も杓子もブランド物を身に付け、石を投げればブランド女に当たるといった具合だ。
私がブランド物を持たなかったのは、「自分の嫌いなタイプの女達が必ず持っていたから」という理由もあるかもしれない。

そのころの私と言えば、やはり世間と逆行していた。
「芝居」に夢中になっていたため、貧乏だった。
貧乏ゆえに、安価で「カッコいい」服やバッグを探して身に付けていた。
デザイナー志望の妹が手作りしたセンスの良い服を借りて着たりもした。
就職はせず、「芝居」中心のアルバイト生活。
興味のある小劇団にフラッと参加しては辞めていた。
「芝居をやりたい」という方向はハッキリ決まっていたのに、いつも「何かが違う」と思い、七転八倒、右往左往していた。
オーディションやコンテストには落ちまくり、身のほどを知った。

芝居を作る方に方向転換し、企画書を書きまくっても所謂「便利使い」

そうこうしているうちに30代になった。
一応身のほどをわきまえているので、30代で「芝居を演じる」ことをやめ、「芝居を作る方」に方向転換した。
受講料の安い「シナリオ短期集中ゼミ」に通い勉強した。
ドラマのアイデアは湯水のように浮かび、書きまくった。
しかし、テレビのシナリオコンテストに応募しても、最終選考どまりだった。
テレビ局にドラマの企画書を提案してもボツが続いた。
そのうち、自分は面白いと思わないのに、テレビ局のプロデューサーに企画書を書かされるだけの日々が続いた。
所謂「便利使い」だ。
ほとんどギャラも出ない。
「こういう感じの企画書にしてほしい」と言われ、印刷された企画書を見ると、私が以前書いて名前だけプロデューサーに替えられた物を見せられたこともある。
「こんなことしていたら、ダメになる」
また右往左往した。
何もかも中途半端。
でも生活するためにはお金がいる。
結局私はお金に振り回されていたのかもしれない。

生活費を稼ぐため時給の高い派遣社員に転身し、60社で仕事をした

やがて、自分が面白いと思うことだけを書き、コンテストに応募もしなくなった。
脚本家の旦那と共同脚本の舞台作品が海外で上演されたりもした。
しかし、好きなことだけ書いて暮らしていけるほど世の中甘くないので、生活費を稼ぐため、時給の高い派遣社員をやった。
理系出身なので、コンピュータの扱いには慣れていた。
主にOA事務の仕事をした。
仕事をしながら、スキルを伸ばしていった。
30年あまりの間に、一流企業、大学、官公庁など約60社で仕事をした。
エクセルやワード、WEBデザインの資格も取った。
60社で仕事をしてきた私が言えることは、
「どんな会社にも、嫌なヤツはいる」
「大切なのは、その仕事を好きか嫌いか」

ハーフ・プロフェッショナルな私は身のほどをわきまえている、つもり

現在、マーケティングの会社に派遣されて3年が経ち、つい先日、派遣会社の無期雇用社員にしてもらった。
役者やシナリオライターとして長続きせず、「プロフェッショナル」になれなかった私。
派遣の「プロフェッショナル」にはなれたかもしれない。
いや、まだ「芝居を書く」ことへの未練があるから、
「ハーフ・プロフェッショナル」ということにしておこう。
まだまだ私は、人生を諦めてはいない。
今こうやってエッセイを書いていること自体、諦めていない証拠。
「芝居」や「シナリオ」に夢中になっていたときのように、何かを残したいという気持ちは変わっていない。
身のほどをわきまえているのなら、このエッセイは提出しない方が無難だ。
支離滅裂だもの。
よって、私は身のほどをわきまえている、つもり、と言っておこう。