幼少期の私は、男の子とばかりと遊んでいた。短パンやかっこいい柄の服装を好んで、買ってもらっていた。外で泥だらけになるまで遊び、セミ採りやザリガニを育てた。

一方で、ピンク色が好きでぬいぐるみを大切にしていた。

同期の男性社員には教えないのに、なぜ私にだけお茶汲みを教える?

物事をハッキリと伝える節もあってか、成人してからも親しい人は私を“女性”という枠に括るより、私という枠を設けて接してくれていたように思う。

生理痛は重いものの、女性を強く意識させられた事はあまりなかった。やりたいことはするし、嫌なものは嫌。

しかし、そんな性に括られない生き方は、社会では通用しなかった。男性の同期と私、2人で店舗配属された。最終的なコースは違うものの、一年半はやることが同じだ。

初めて感じた違和感は、お茶汲みである。なぜか、私にしかお茶汲みを教えない。私がどんなに忙しくしていても、手の空いてる彼には頼まず、私にお茶を出せと言ってくる。しかも、手の空いてる彼が「お茶出せって言われてたよ」と言ってくるのだ。意味不明すぎるし、効率が悪すぎる。

だから、お茶の淹れ方や出し方全部を教えた。そうしたら次は「女性に出して欲しいんだよね」と、上からクレームが入った。誰が淹れても、出しても、同じだろうに。

一年目に覚える事務作業は、主にパートの女性が担うものであったが、産後復帰を考えてと、まだ結婚もしていない私を気遣って、彼の3倍の仕事を覚えさせられた。彼はメモも取らず、なんとなく過ごしていた。「ここでの仕事は覚えなくてもいい」そんな心の声が漏れていたし、周囲も同じ認識であったように思う。

女性・男性だからという理由で、仕事の内容が違うのはどうだろうか?

同じカリキュラムのはずの彼は、半年早く次の部署へと移された。代わりに、私は半年長く在籍することになった。遠回しに、結婚予定があるのか聞かれた。この予定によっては、部署の配属が変わるらしい。素直に答えるわけがない。

「もっと華やかな化粧をした方がいい」なんてことも言われる。職場に出会いを求めているわけでもなければ、私は美容部員でもない。身だしなみとしてお化粧を求められるが、清潔感ある美人なら薄化粧でも言われないだろう。それなら言わせてもらうが、性別関係なく肌の見栄えでコンシーラー、ファンデーション必須とかにしたらどうだろうか?

重いものは、男性だからといって持たなくても良い。2人で持てばいい。育休も男性が取ってもおかしくないだろう、2人の子供だ。そもそも男女の仕事の組み分けは、昔はそれが一番効率が良かったから、その形になったと考えられる。

確かにマンモスを狩っている時代なら、力では非力な女性が火を守り、木の実を集め、家族を守って帰りを待つべきだろう。女性しか子供を産めないであれば、子孫を多く残すために、非力な女性を狩りで失ってしまうのは効率が悪い。身体的面が、生命活動に大きく影響したのだ。

「男だから狩りに出る」でなく、「力も身体も大きい自分が狩りにをした方が良いだろう」が始まりなのではないか。そして、その方が効率が良いと分かった時「男だから狩りに出る」という概念が生まれたと考えられる。女性も然りであろう。

個人の能力をどうやったら活かしていけるのか、考えなければならない

しかし、今の時代マンモスを狩ってはいない。男性だから、女性だから、という概念が必須になる場面も殆ど無いと考えられる。あるとしたら、緊急事態時か、そう思い込んでる場面だろう。

私は、女性だけが大変だと言ってるわけではない。男性も男性というだけで、苦労して来たことは沢山あるのだと思う。狩りをしていた時代から、ここまでくるのに、多くの男性が時代を、技術を牽引してきたからだ。

だからこそ、より、人間という生き物が生きやすくなったのだ。生物として生きやすくなるために作った役割分担が功を成して、人間としての生きやすさを手に入れたのだ。

ならば人は、次のステージに進むべきなのではないのか。身体的面に括られる活躍より、もっとフラットに、個としての能力をどうやったら活かしていけるのか、考えなければならないのだ。

男性であるか、女性であるか、関係ない。どちらで無くても良い。大切なのは、どういった人間であるか。今の時代を作っていく私たちが、昔の概念を破る力を持っているのである。
私は、悩み事を相談されたらまずこう答える。「あなたの持っている属性全て関係なく、人としてあなたはどうしたいの?」と。