本音だけで済めば楽だけれど、円滑に周囲と交流しづらい

ある日、わたしは一つの仮説を立てた。
「皆、自己と自己の全周囲との関係を意識しているからこそ、それに応じた役割を演じているだけではないか。そして、どのような役をいかにうまく演じるかの違いが『わきまえている』かどうかの尺度を決める要因の一つになっているのではないか」

いつでも演じずに本音だけで済むのであれば楽なのだが、それでは円滑に周囲との交流を行いづらい。実際は、場面・状況ごとに演じていると割り切ってやり過ごすこともある。その演技を楽しめるのであれば、さほど問題はないだろう。

時には押し付けられた役割も回ってくる。余計な口出しをせず、状況を静かに受け止めてニコニコ演技していれば偉い人などに「わきまえているね」と言われるが、誉め言葉なのかどうかもわからない。そこでは可愛がられるかもしれないが、言われて嬉しいという感情がわかないのだ。ただ耐えることが美徳かどうかも疑問だ。
そして、演じきれずに自己の中で軋轢が生まれると、周囲に順応できなかったりするがゆえのつらさと抵抗が、隠し切れない怒りとなって外に向かうことも少なくはない。

頑なになるほど、周りには通じないことに絶望感を抱いた

ふと、昔のできごとを思い出した。
職場でのバス旅行。幹事の先輩は座席表を見せながら、わたしに話しかけてきた。
「部長の横に座って相手してね。そのほうが偉い人は喜ぶし、この部署、女の子いないから。もう変更はできないからよろしく」
「あり得ないです。意味がわかりません」
愛想笑いすらできず、泣く泣く座るものの直ぐに「もう、やめます!帰してください!」と爆発した。おとなしく言うことを聞く女の子を演じることを拒否した。周囲からは「穏便にしてわきまえなさい。みんなの旅行を台無しにするな。ニコニコ黙っていればいいんだよ」と諫められた。

わたしは、仙人のように全てを受け入れて達観することも、女優になって演じ切ることもできなかった。「わきまえろ、なんて、そんなのおかしい!」と声高に主張を続けたが、頑なになるほど周りには通じないことに絶望感を抱いたのだ。
周囲の様子に合わせたやり方がその場における正解だったとしても、自分自身の考える正解とは必ずしも一致しない。発した表現が自身にとって会心の出来だったとしても、周囲がそれで良いと思うかどうかも別である。周囲との調和が損なわれれば、批判の対象にもなり得る。
周囲の評価を基準とするのか、自分自身の思いをどこまで優先するのか、この判断も「自己と自己の全周囲との関係」のなかにある。

自身を表現することこそが、本来の「わきまえる」に繋がる

そもそも自己と自己の全周囲とが異質だという時点で、互いに違和感は生じるのである。より強い爪痕を残そうと認めてもらうことに躍起になったところで、違和感は増すばかりだ。だからといって、互いに生じる違和感をないものとせよ、というのも無理な話なのである。違和感を持つこと自体がおかしい、というのも相手の思いを否定することに繋がる。

結局のところ、それぞれが自身の思う正しさの姿に囚われるあまり、互いに生じる違和感を忘れてしまうことこそが「わきまえない」ことではなかろうか。自己と周囲で互いに生じる違和感を認識したうえで、自身を表現することこそが「わきまえる」という言葉の本来の意味・意義に繋がると思うに至ったのだ。
だとしたら、演じるという前提を持ってきた点で、仮説は間違いだ。そもそも演じることを第一とする必要はなかったのだ。

まず、自己と自己の全周囲との関係のなかで、自身が「どうしたいのか」「どうなりたいのか」を問いかけてみることだ。そして、問いかけの答えを一つの軸として、周囲との関わりのなかで、違和感のもとを探りながら目標を見つめ追求したことを表現していくことが大切なのではないかと思う。
そういう意味では、あの頃の頑ななわたしも、自身の思う正しさや経験に縛られたいまのわたしも、まだまだわきまえているとは言えないようだ。