あの時、私は二十歳だった。本来は輝ける年頃。
あの時、私は傷心だった。ただでさえ渦中にいたのだ……。

そんな時に、あのDisasterが郷里を襲った。その脅威は水だった。この文章を書く為に、うーんと記憶を手繰り寄せてみるのだけれど切れ切れになって繋がらず、心の傷の深さを知る。どうにかこうにか記したくて、当時の私が何百回となく聴いた曲を流してみる。
――記憶の扉が開いた。泣きたくなる。ああ、蘇ってきた。

Disasterが訪れると知っていても、それは見えない「いつか」

それまでは、Disasterの被災地を支援する立場だった。有志での勉強会にも参加し、郷里には郷里特有のDisasterが予測されているとの情報も得ていた。
その日が訪れる事を知っていたのだ。けれどそれは見えない「いつか」であり、「直ぐそこの近未来」に訪れるという危機感はなかった。私の覚悟は間に合っていなかった。

あの夜の郷里は、どこもかしこも冠水してドブ色の川と化していた。雷に照らされて、家の近くの河川と平地の境目がなくなり、水の脅威がどんどんと押し寄せる光景を、ただ呆然と見るしかなかった。寝ていたら家ごと流されそうで、かと言って逃げ場もなく、Disasterを前に私はただただ無力だった。人が水にさらわれる瞬間も目の当たりにした。
「地獄絵図」とはこういう事なんだと、余りに辛かった私は一周回って妙に実感するのだった。

朝が来た。どんな夜でも、明けない夜はないのだ。やはり私は記憶を消してしまったのか、詳細には思い出せないのだけれど、その朝は着の身着のままに隣家の土砂を掬い出していた。仰ぎ見れば、空にはヘリが飛んでいた。
高みの見物に「貴方たちは何をしてくれるの?」「私たちはどう映るの?」と、何とも言えない感情で一杯になった。そんな記憶だけは残っている。

連絡が途絶える中、唯一私を被災者として心配し、寄り添ってくれた人

それまでの支援先の知人は「そちらの動きはどうですか?」と私に尋ねた。私自身が被災していてパニック状態と知ると連絡が途絶えた。
大学のクラスメイトも仲間ではなかった。彼女等は安全な場所で幸せな人の門出を祝っていた事をSNSで知った。家族は益々分断され、恋人も親友もいなかった。悲しかった。「残るモノは何もない」「誰も心配してくれない……」と思っていた。

「Lib.shokoちゃん、大丈夫?恐かったね。大変だったね」
――そんな風に寄り添ってくれた人がいた。とあるDisaster避難者の会の代表の女性だった。唯一、私を被災者として心配してくれたサポート仲間だった。
彼女はリアルにDisasterを経験して、環境汚染の脅威から離れるべく郷里へ避難したという過去があった。だからこそ持てる心の視野があったのだろうと回顧する。
同時期、ある人は支援活動に復帰しなさいと私を鼓舞したが、彼女だけは「辛いのに無理しなくていいんだよ。今は自分を大切にしていいんだよ」というメッセージを送ってくれた。人として、サポート仲間としてというより純粋に、彼女を信頼する契機となった出来事だった。

出来れば経験したくなかったけど、紛れもなく、人を見る目を修正した

私は、彼女を切実に頼った。そして程なく、立ち直った私は支援先を彼女率いるDisaster避難者の会へとシフトした。
助けてくれた人に恩返しをする、それが社会貢献にも繋がる、そんな心を通わせられるサポートの形が誕生した。

出来ればDisasterなど経験したくはなかった。だけど紛れもなく、Disasterが人を見る目を修正してくれた。自然の脅威が私をリセットしてくれた。
この世の中には、「弱みに付け込む」なんて空しい言葉もあるけれど、弱さを知るからこそ手を取り合えるのが人間の真の姿であると、私は信じたい。

あれから時が経ち、今や私もアラサーと呼ばれる年頃になった。幸せな時より挫折し打ちひしがれる時の方が多かったように思う。裏切られ、弱さなど見せるべきでなかったと悔し涙が溢れた時もあった。それでも私は人を信じたい。信じて頼った暁には、恩返しをして生きたい。

Disaster――ある星に見放されても、また新しい星は見つかる。
見ている人は、きっと見ている。