楽しい同棲生活のはずなのに、かさむ出費に心晴れない日々

わたしは去年の春頃から、大好きな彼と晴れて同棲生活をスタートさせた。
その時には、当初想定していたよりもかなり大きな金額が必要になってしまい、かなりがっくりきてしまったことを今でもよく覚えている。

生活していくうえで最低限必要な日用品や家具家電、引越しにかかる費用などに貯金を当てると、預金残高はかなりギリギリの状態になってしまい、楽しみにしていたせっかくの新生活なのに、今日もこれだけの出費があった、今月の収入はいくらで支出はいくらだろうかなど、そういうことばかりが気になり、お金に対する漠然とした不安や出費に対する罪悪感に苛まれ、心が晴れない日々が続いていた。
このように、お金を使うことに対するぼんやりとしたネガティブなイメージと、生きているだけでこんなにお金がかかるものなのかという実際的な重苦しさとのダブルパンチによって、わたしはいつしか、お金はわたしの頭をいつも悩ませ苦しくさせる、厄介で嫌な存在として捉えるようになってしまっていた。

大好きなものに囲まれのんびりする日、幸福感に包まれていた

しかし、そんなわたしのお金に対するイメージを変えるきっかけが、ある日突然やってきた。
それはとてもよく晴れた秋の日だった。その日は偶然仕事が休みになって、特になんの予定もないのんびりとした一日だった。

その日のわたしは古着屋さんで購入した、お気に入りのふわりとしたワンピースを着ていて、これまた大好きなデザイナーさんがSNSで販売していた可愛らしいトートバッグを肩から下げて、その中には近くの古本屋さんで発見したお気に入りの作家さんの本を数冊入れていた。
そして、忙しくてなかなか行くことができていなかったお気に入りの喫茶店を久しぶりに訪れて、やわらかい日差しにきらきらと反射する一杯の美味しい珈琲を飲みながら、本のページをぱらぱらとめくっていた。

張り詰めた気持ちで日々を過ごしていたわたしは、久しぶりにとても静かな空間でほっと一息つけたこともあって、とても満ち足りた気持ちになっていた。
ささやかだけれど自分で選んだ大好きなものに囲まれて、わたしは幸福感に包まれていた。
そして、のんびりとした気分の中でなんとなくそんな状態に気づいた瞬間、「自分は今、なんて豊かで幸せなのだろう」という感情が、とてもはっきりと心の底から湧いてきたのだった。

忘れていた、わたしの生活にはたくさんの思い出が飾られていること

もちろん、家や記憶の中には他にもたくさんのお気に入りのモノや楽しかった思い出が飾ってあって、今のわたしの生活や心を彩ってくれていたではないか。
わたしの生活は、たくさんの"ある"のおかげで成り立っていたというのに、わたしは今まであれも買えないこれも買えない、またお金が減ってしまった、ということばかりに意識を向けては悲しくなったり焦ったりしていたのだ。
わたしはそんな自分が急にとても恥ずかしくなった。

こういうことに気がついてからは、今まで厄介で重苦しい存在であると思っていたお金に対して、その大小に関わらず、自然と感謝の気持ちが押し寄せてくるようになった。
だって、たくさんのお気に入りのモノや思い出たちがわたしのそばにあってくれるのは、ささやかであってもそれらを購入したり体験したりするだけの充分なお金がわたしの手元にきちんとあってくれたからに他ならないのだ。

お金は大切な友達。気持ちよく送り出し、迎え入れたい

お金はわたしを苦しめたり制限したりするものなのではなくて、日々に小さな幸福感や豊かな気持ち、そして楽しい思い出をもたらしてくれる親しい友達のような存在なのだと感じられるようになった。
わたしたちは、明るく積極的な心で、お金を大切な友達として、気持ちよく送り出したり迎え入れたりすればいいのだ。

もちろん過度な浪費は良くないが、お金をいくら使ったのかということばかりに焦点を当てるのではなくて、そのお金を使うことによって自分や周りの人たちがどのような幸福感を感じられるのかということを指針に、感謝してお金を使うということが何より大切なのだ。

わたしはこれからも、この感覚を忘れずに、お金と手を取り合って、病めるときも健やかなるときも、お金がもたらしてくれる豊かな気持ちを敏感に感じながら、働ける時にはきちんと働いて、爽やかに生きていきたいと思う。