私は『どうせカラダが目当てでしょ』(王谷晶、2019)という本を、心や体が不安定でスクリーンから離れたいときにめくれるよう、手の届く位置に置いている。

どう戦えばいいのか?という絶望と疑問をかっ飛ばしてくれた

学ばなければ、広めなければと頭では分かっていながらも、女性への不当な扱いに関する様々な情報を目にしていると、スクロールする指が止まってしまうことがある。
絶望に対する防衛本能が正しく機能しているのだろうが、できれば目を見開いて踏ん張れるタフさが欲しい。
今の状況を改善するには戦い続けるしかないから。
そうやって、少しずつでも世界は良くなってきた。
でも、どう戦えばいいのだろう?
女性として「身を守れ」「気をつけろ」とは耳が痛くなるほど言われてきたけれど……。
怒っていいのか、戦ってもいいのかさえもわからなかった。
そんな疑問を解決するのではなく、疑問ごとかっ飛ばしてくれる一文がこの本にはあった。

「こんなクソな社会で女子が一日生き延びる、その生存そのものが立派なレジスタンスなのだ」

そうか、私はずっと戦っていたんだ。

「自分の身体は自分だけのもの」なはずのに…

女性の身体で歩いているだけで、外野がうるさすぎる。
訊いてもいないのに各部位の美醜や性的魅力へのコメント・評価、妊娠・出産などへのアドバイスなどが付きまとってくる。
そんなことを当然のように毎日浴びせ続けられたら内面化してしまうのは仕方のないことだが、本来、身体のというのは他でもない、自分だけのものだ。
色んなものから切り離して身体と向き合って「生きているだけですごい」と言ってあげよう、と筆者は提案する。

これは今まで私に、私の身体に誰も言ってくれなかったこと、そして自分でも言ってあげられなかったことだった。
読み進めると、摂り忘れていた栄養素を補うかのように目から入った言葉が体じゅうに取り込まれていくのを感じた。

「……やっぱり誰かの評価のために自分を変えるのは『減る』。何が減るかというと、『それくらいイイじゃない減るもんじゃなし~』ってフレーズを投げつけられたとき勝手に減らないと見なされた『何か』です」

相対化や比較というのは社会で生きていくうえで避けて通れない。
身体に限っても、あの子のほうが自分より足が細い、胸が大きい、自分は平均と比べて背が高い、痩せている、など。
しかしそれに囚われすぎて絶対性を見失ってはいないだろうか。
変わる努力をするのはもちろん個人の自由だが、本来評価の対象ではないはずの自分自身や他の人にそう思わせているものは何だろう?と問うのも忘れないようにしたい。
自分の身体に必要以上に厳しくなってしまったり、他の人に土足で踏み込まれそうになったときの赤信号を見過ごしたくない。

なんとか生きてる世の中。この本を片手に“火炎瓶”を投げよう

この本を読んでから、私は周りの人たちに「かわいい」や「きれい」と軽々しく言わなくなった。
いわゆる「身体によくない」ことをしても、自分をそこまで責めなくなった。
鼓舞するならば「二本足で立ってるだけで偉い(けど今日は特に素敵だね)」などが今のところ一番良いのではないかと思い、自分にも他の人にも言うようにしている。

この本には、文字通りお腹を抱えて笑ったり目から涙が止まらなくなるような、体じゅうで味わう言葉たちが散りばめられている。
いわゆる「女らしく」「おしとやか」なアプローチではこぼれ落ちてしまう、人間らしい強さと優しさに満ちた表現力で溢れている。
身体のことで悩んでいる人、悩まされている人、悩んでいると気づかずに苦しんでいる人、知らず知らずのうちに心無い言葉で人を苦しめてしまっているかもしれない人など、多くの人がこの本を読み、ラクになれるような社会になるといい。
「みんななんかの拍子でこの世に生まれちゃったからなんとか生きてる」世の中で、自愛と他愛を増やしつつ、許しがたいことにはこの本を片手に“火炎瓶”を投げつけていきたい。