誰もが年齢に伴う理想と自分を比べて焦ったり、安堵したりしている
ハタチになった。成人した。成人式には行かなかった。
これまで十代の階段を駆け上がってきたが、それがようやくひと段落ついてしまったような気がする。
周りの人には「二十歳だね。おめでとう。成人式か」などと声をかけられた。もちろん声をかけてもらえるのは嬉しい。ここまで生きてこられたのはすごいことだ。
だけど、二十歳になったからって何なんだろう。これから年を取っていくことが初めて嫌な感じがする。それは若さを失うことが嫌だからなのかな。ただ、時間ばかりが過ぎていくようだ。私は自分が年齢に追いついているのかよくわからない。
2022年の2月。あっと言う間に大学での2年が終わろうとしている。こうやって実家にいると、たまに怒りみたいなものがこみあげてくる。
周りからは見えないような私の内側のところにそれはある。この怒りはコロナのせいなんだろうか。いや、そうでなかったとしても自分は何もできずにいたのではないか。
そう思うと、何かにつけてコロナのせいにしてしまう習慣がついてしまったと感じる。
「もう二十歳なのに恋愛経験がありません。やばいですか?」
SNSで目にした言葉だ。
そうか。二十歳になるということ、大人になることに求められる経験があるんだ。だけど、なんだかもやもやする。それって年齢に決めつけられ、周りの人間と比較してしまっている考え方なのではないか。
すると、コメント欄には「わたしなんか〇歳なので大丈夫ですよ」という誰かからの言葉が返されていた。誰もが年齢に伴う理想を意識して、安堵したり、焦ったりしているように思う。
髪を染めたと疑われた高校時代。ただの大勢の中の一員だった
2年前までは高校生だった。振り返ると少し苦しい。
なんだか、閉じ込められているような気持がした。だから、正直大学生になって楽になったと思う。多少自由に自分でやっていけるようになった。
私はすぐに髪を染めた。それだけでなんだか解放感があった。
高校には厳しい身だしなみの検査があった。ある時、私の額付近の髪は茶色く、それは皮膚科でもらった塗薬の影響であるのだが、先生たちには疑われた。
驚いた。自分がそんなことをするはずがない。先生もわかっているはずと思った。
しかし進学校に入学した私は、それなりに勉強のできる大勢の一員でしかなかった。私は何も言えなかった。特に罰せられることはなく注意をされただけだ。
きっとなんでもない小さな出来事なのに、忘れられない。
何をもって紛れもない自分であるといえるのだろうと思った。
イエスとノー、好きと嫌いを言えるようになりたい
イェスとノーをはっきり言えるようになりたい。自分のしたいこと、したくないこと、好きなこと、嫌いなことを言えるようになりたいと思った。
大人になることがどういうことなのか、考えてみてもよくわからなかった。
だけど、この目標が今の自分にとって、大人になるということかもしれない。
そうだ。大人になるって、成長していくことなんじゃないか。背は伸びないけれど、中身を磨いていける。変わっていける。挑戦できる。
これからも人と比べて落ち込んだり、焦ったりし続けると思う。正しい答えはないと思う。だけどこんな風に、年を取るたびに、こうなっていきたいと思いを新たにするって大事なことなんだと思う。