高3の冬、絶望的な模試結果に息ができず、一歩も歩けなさそうだった

高校3年生の冬のある夜、私は父に手を繋いでもらいながら家まで帰った。

受験生になって自分の不甲斐なさに打ちのめされるようなことは何度もあったが、その日ばかりは誰かに手を引いて帰ってもらわないと、息ができなくて、喉をかきむしりそうで、一歩も歩けなさそうであったのだ。

数週間前に受けた試験が返却された日だった。
今思い返してみれば、なんてことのない、何度も受けたことのある模試の一つに過ぎなかったし、第一志望の大学の問題様式とは全く異なる問題の試験であったのにも関わらず、当時はその試験の結果が自分の現在の全てであるような気がして、第一志望E判定、第二志望E判定、第三志望E判定……とE判定のオンパレードの成績表を見て、努力もできない自分は社会から必要されていないゴミだ、私の居場所なんてどこにもないんだ、と予備校から帰る電車の中、人目も気にせず身体中を掻きむしった。

「迎えに来てほしい」。理由は聞かずに「わかった」とだけ答えた父

このままでは家に帰れない、帰る途中で泣き出して足が止まってしまうだろう、とたまらず電車の乗り換えで使用する駅にある公衆電話にテレフォンカードを差し込み(当時、受験に全ての力を注いでいた私はスマートフォンを持っていなかったため、連絡手段は公衆電話だけであった)、自宅に電話をかけると父が出た。
「最寄駅まで迎えに来てほしい」と言うと、理由は聞かずに「わかった」とだけ父は答えた。
家までの帰り道に誰かがいてくれると思うと少し気が楽になって、電話をかけてから乗った電車では体を掻きむしらずに済んだ。

最寄駅に着いて、祈るような気持ちで周囲を見渡し父の姿を探した。
父はいなかった。
マイペースな父は、私の乗った電車が駅に着く時間から逆算して家を出ようという気はさらさらなく、ゆっくりと歩いてきたのである。
そんなところも父らしくて、迎えがいない事実に声を上げて泣き出したくなるほど一杯一杯になっていた気持ちがほどけていく気がした。

何も言わずに手を繋いで帰っていると、焦りが少し和らいだ

思春期を過ぎてから、学校であった楽しかったことや辛いことは父には言わなくなっていた。
小学生の頃は定時で上がっていた父も、私が中学生に上がる頃には昇進し忙しくなり、夕ご飯を食べる時間が他の家族とずれ始めたことも理由のひとつかもしれないが、実のところは父に自分が熱くなる姿や苦しんでいる姿を見せたくない、そんなの恥ずかしいと思うようになったのが一番大きな原因だと思う。
でも、振り返ってみると私の大一番や辛い時は必ず父が付き添ってくれていた。
歯科医院で抜歯をするとき、遠い場所での大会の送り迎え、中学校受験の本番……。
待ち合わせ場所で父のフニャっとした笑顔を見ると、なんだか気が抜けるのだ。

何も言わずに手を繋いで帰っていると、焦りが少し和らいだ。
年頃の女子高生(しかも泣き出す一歩手前の怒っているような泣き出しそうな高校生らしからぬ表情をした)と、50代に差し掛かろうとしている父親らしき男性が手を繋いで無言で歩いている姿は、傍目からしたら滑稽に映ったかもしれないが、久しぶりに二人で帰る帰り道に当時の私は救われたのだ。