27歳って、もっと大人だと思っていた。
子供の頃に描いていた27歳っていうと、怖いものがなくなっているんだと想像していた。大人という生き物は怖いものがない、無敵なんだと、勝手にそう信じ込んでいたのだ。
だって母は大嫌いなあの黒い害虫を難なく殺せたし、父は夜のトイレにだって物応じずに行けた。私が「虫が怖い、おばけが怖い」と駄々をこねるといつだって「それは子供だからだ、大人になれば自然と怖くなくなる」と断言した。
けれどもいざ27歳になってみても、未だに虫は怖いので、「どうか出てこないでくれ」と祈りながらスプレーするだけで虫が出なくなるという秘密兵器を部屋中に噴射しているし、夜中の物音で飛び起きてはおばけの襲来ではないかと慌てふためくほどお化けも怖い。
成人はしている。酒は飲めるし、恋も大人のキスも知っているけれど、あの頃描いていた大人になれているかというと、100%なれていない、賭けてもいい。
今の自分は大人になりきれない。子供を浪人しているような気分だ
私は年相応という言葉が嫌いだ。というか最近嫌いだということに気が付いた。
10代の頃は校則に縛られるのを嫌い、空き教室で暇を摺り減らすようにぼんやりと授業をサボって空の写真を撮ってみたり詩を書いてみたり……。
誰もが量産型のいい子ちゃんでいるのを横目に、型にハマりたくないと抗ってばかりの私を誰もが「子供らしくない」など指さしたけれど、いざ年齢だけ大人というものに歩み寄って世間的には大人と子供の境界である成人年齢をひょいと超えたあたりから、今度は「大人らしくない」と言われるようになった。
私には苦手なものも怖いものもたくさんある。ストレスに耐えて身を粉にして、嫌なことに直面してもにこにこ笑って受け流して生きるのが大人らしいのならば、サービス残業とサービス出勤の真っ黒な営業職から身と心を守るためにドロップアウトした私は確実に大人らしいとは呼べない。
大人らしく、ならなければなとは思う。
だが、世間が決めた大人らしさを追い求めるあまりに、自分のありのままの姿を塗り潰してしまうのも嫌だ。大人だけれど苦手なものは苦手で怖いものは怖い、出来ないものは出来ない。
成人年齢の誕生日を迎えたら大人になるかと思いきや案外そうではない。そう簡単には大人という生き物にはなれない、せいぜい今の自分は大人になりきれない……子供を浪人しているような気分だ。
人生は一度きり。歌が上手いとは言えない私が、路上ライブを始めた
そんな自分はよくないものだと思い込んでいた。
みんなアンチエイジングだなんだと肌や顔は若返りたがるのに、心がいつまでたっても大人になりきれていないのは、年齢不相応なひとは、ハンと鼻で笑って見下される風潮がある、世間的に劣っていると決めつけて自分で自分を傷つけていた。
そんな私の意識を変えたのは路上ライブだった。
一昨年より私は、元ご当地アイドルで現在は芸能事務所の代表を務めている方に誘われ、路上ライブに度々出演させて貰っている。
私は目立つタイプではないし、歌だって決して上手いとは言えない。
けれどなぜ出演しようと思ったかというと、一度きりの人生だから少しでもやってみたいと思ったからだ。それに路上ライブをしたことがある人なんてそうそういない、なにか珍しいことに手を出してみたかったのだ。
場所は通勤通学で人の集まる駅前で、ステージは工事用の三角コーンで仕切られている長方形の中、時間は19時とスーツ姿のサラリーマンや部活帰りらしき学生が溢れていた。足を止めてくれる人もいれば、白けた目で一瞥して足早に消えていく人もいる。
自分の出番が近づくと、緊張で手も足も震えているのが分かった。
「次は忍足みかんさんでーす。どうぞー」
呼ばれてステージに立つ。ステージと観覧スペースは仕切りがあるだけで平坦で、一歩足を延ばせばすぐなのになぜかとても遠く感じた。
観客たちは、彼女が何歳かなんてことまったく意識していない
歌った曲は3曲で、どれも人気のある往年のヒット曲のカバー。もうカラオケでは何回も歌っているのに歌詞が何度も飛んで行った。
どうにか出番が終わると、たくさんの人から「お嬢ちゃんよかったね」「若い子がよく古い歌を知っているね」などと声をかけてくれた。
お嬢ちゃん?若い?それが相応しいかどうかわからなかったけれど、皆が自分を免許証や戸籍に記載されている本当に生きてきた年齢ではなく、見た目や雰囲気の年齢で見てくれているのだと思った。
そしてそれは私だけでなく、ステージに立っている人たちはみんな同じだった。代わる代わる出てきては歌い踊り、一礼をしては袖に戻っていく歌い手たち。
セーラー服を着て踊っているけれどもその実年齢はわからない。
そして私を路上ライブの世界に誘った代表は、まさしくそんな存在であった。ご当地アイドル活動をしていたこともあり、年齢が分からない。一度聞いてみようと思ったこともあるが、女性に年齢を聞くのもなあと思って未だ聞けずにいるが、一度ステージに立ち、指先までぴんと整ったダンスを踊り、スカートをはためかせながら華麗に回り、笑顔を振りまくその姿には年齢なんて数字どうでもいいなと思えるし、楽しそうにそのパフォーマンスに手をたたく観客たちは彼女が何歳かなんてことまったく意識していない。
それは特別なことのように思えた。そしてとても羨ましく見えた。
大人になるということを、一生知ることなく死んでいくのかもしれない
大人にならなくてはいけない、とか何歳から大人なんてものはどうでもいいのかもしれない、大人と子供の境界に悩んでいたけれど、そんなものに頭を使うのは短い人生の時間を費やすのは馬鹿らしいのかもしれない。
大人だ、子供だ、という明確な区切りはなくて、成人やお酒を飲めるかたばこを吸えるかは世間が作ったただの指針に過ぎない。
本当に大人になる、ということを私は知らない。もしかしたら一生知ることなく死んでいくのかもしれない。でもなんとなく分かるのは、肉体や生きてきた年数が大人になる、のは簡単で、ただぼーっと生きているだけでも簡単にクリアしてしまう。
けれど本当に大人になるということはそう簡単にはいかないようだ。もしかしたら誰か大切な人を見送った時に分かるのかもしれない、枯れるほど涙を流した時に分かるのかもしれない、一日、一日、私達の肉体は老いていくし、死へと転がっていく中で見つかるのかもしれない。
深い夜の闇を背負って、月の明かりをライトにしてマイク片手に歌を奏で、私は年齢不相応かもしれない「ちゃん」付けをされた名前に応えて、大人らしくないかもしれないけれどかわいい振り付けに体の関節を預けて笑ってみせながら思うのだ。