私が子どもだったとき、大人というのはすごい遠い存在で、自立した一人の人というイメージだった。意外にもその線引きが曖昧だということを知ったのは、自身が成人してからのことだった。
成人年齢が18歳に。子どもと大人の境界はこんなにも簡単に揺れ動く
年齢が社会的構築物である以上、どこまでが子どもでどこからが大人という線引きは難しい。
成人年齢が20歳から18歳に引き下げられ、それに伴い法律に規定されていた多くのものが揺れ動いた。一方、高校3年生で迎える大学受験を考慮して、成人式はハタチの集いと名前を変えて継続している自治体が多いと聞く。
この経緯を通して、子どもと大人の境界はこんなにも簡単に揺れ動く物なのかと我ながらに思った。
では、「大人になる」とは一体どういうことなのだろうか。
これは私の勝手な考えに過ぎないが、「大人になる」とは、その表現を使った一個人の考えに過ぎず、社会的に言えばこれといった大きな意味を持つものではないと思う。だからこそ年齢という社会的構築物にとらわれず、自分がそう感じた時に自由に祝福をしたり、自己満足してみればいいとも思っている。
法律上大人になるだけなのに、何がおめでたいのかわからない成人の日
例えば3月に29歳になる私は20歳で成人を迎えたが、鳴り止まぬように来る振り袖の広告を見て、
「そうか、ハタチになるのか」
程度のことしか思わなかった。
しかし周囲を見渡すとその意味はそれなりに大きいようで、何十万円もかけて記念に振り袖を購入したり、その振り袖で親戚中を挨拶に廻ったりもしたと言う。私の所にも母の実家から、
「今週の土日は来るのか」
という趣旨の電話が来たが、ハタチという節目に関心がなく、気に入った振り袖もなかったことから何のアクションも起こさなかった。だが、世間ではそれなりに意味のあることだったのだ。
そもそも私は法律上大人になることの何がおめでたいのかすら分からなかった。
成人するということは、高校や大学の入学、課外活動での成果と違って努力しなければ手に入らない特別なものではない。考えてみると、小中学校の卒業式でおめでとうと言われても、何がおめでたいのかさっぱり分からなかった。成人の日という祝日も、振り袖や飲食業の発展と国民の祝日という意味での賛成に過ぎなかった。
祖母は感動して20万円もくれたが、正直なところ「私は何も努力をしていないのに」というのが本音であった。
まだ何の社会の役にも立てていない、アイデンティティすら確立していない私の何がおめでたいのか、なぜ膨大な学費を払わせているただの金食い虫が祝福されるのか全く分からなかった。
人生は十人十色、祝福した時も「大人になった」と感じる時もバラバラ
逆に言えば、人はどのタイミングで「大人になった」と感じようと、どのタイミングで祝福しようと本人やその周囲の自由ではないか。
私自身ハタチになった時よりも、27歳で長かった学生生活に終止符を打った時や、28歳で長年の夢であった地元で公職に就くという夢を叶えた時の方がよっぽど祝福し甲斐があると感じた。
院生時代に地道な努力によって新たな発見をした時、社会人として毎日通勤をして月給をもらうようになった時、「私は大人になった」と感じた。私がそうであったように、人生は十人十色で、それぞれ祝福した時も「大人になった」と感じる時もバラバラなのである。
確かに成人年齢という社会的構築物が社会に根強くこびりついている感は否めない。でも、それって案外何ともなくない?
私は世間にそう問いかけたい。
法律上成人を迎えた身として経験談を語らせてもらうと、成人年齢を迎えたことによる変化なんて殆どない。だからこそ法律にとらわれず「大人になった」と感じた時に自由に祝福したり、自己満足してみたらいいじゃないかと思う。
もちろん、成人の日を楽しむこともいいことだと思っていますよ。