「結婚、どう思う?」この一言は永遠に語りつくせる魔法の一言だ。

「久しぶり!元気だったー?」
地元の洒落たカフェの昼下がり、テーブルの一角がわっと華やいだ。
二十代後半らしき四人の女の集まり。
らしきとか言いつつ、まぎれもなく私もその集まりに召集されているわけだが。
この四人でこうして集まったのは成人式以来だったか。
五年も経てば多少見た目にも変化があるが、話していくうちに
あぁ、そうだこの子はこういうところがあった、変わってないなぁと
お互いが不思議な安堵を覚えかけていたときだった。

二十五歳、結婚に対して微妙な年齢

 「ねぇ、○○の左手のそれって…」
思ったことをストレートに口にする彼女のひとことがきっかけで、みんなの視線が一人の左手できらめく輪っか一点に集まった。
かく言う私なんて、彼女が来た瞬間からすでに目に飛び込んできましたけどね。
おそらくみんな気になっていたのだろう。よくぞ聞いてくれましたー!という空気が流れ、
その会がそれから「結婚」という話題一色に染まったのはお察しください。
 まるで息をするように左手薬指を見やるクセがついたのは一体いつからだった?
 二十五歳って微妙な年齢だ。
社会に出て数年。自分の足でこの先も人生を選び取って歩んでいけるという確信と、気が付けばその歩みを止めざる得ないほどまわりに漂ってきた「結婚」の二文字。
「結婚」って言葉はこんなに重たさをはらんでいたのかと気づき始める歳。

なんでこんなにこの二文字に縛られているんだろう

 幼い頃の私は、すべての人はふつうに結婚するんだと信じて疑わなかった。
年頃になって恋をして、好きな人と付き合って、好きなことして働いて、好きな人と結婚する。それが実際どうだろう。いくつか恋愛もしたが結婚したいと思えるような人には(今のところ)出会っておらず、職場と家の往復を繰り返す日々、しかし着実に歳は重ねていく。あれ?私が描いてた「ふつうに結婚」ってなんだ?このまま行ったらどうなる私!「ふつう」がこんなに難しいなんて知らなかった!
 しかし、結婚しない人生を選択することは、今となっては何もめずらしいことではない。結婚する年齢も晩婚化している。日本でも海外のように同性同士で結婚をできるようにという動きもある。その中で結婚をせず、ひとりで生きていくのも選択肢のひとつだ。ひとりで生きていくっていうことは、自分の人生を自分に費やせるってことでもある。本当にやりたいことをして、夢中になれる何かを見つける。晩婚化も独身貴族も、仕事や趣味や自分を形づくる「なにか」があって満たされている結果なのかもしれない。結婚しない選択をした人たちに、私はなにかを吹っ切った自由を感じる。自分の人生のど真ん中を歩いている。そしてその決断を下した強さが、羨ましくもある。
 昔と違って今はそんな選択も受け入れられつつある時代に私たちは生きている。それなのにどうして私たちは「結婚」という言葉にまだ縛られているんだろう。縛られていると思ってしまうんだろう。

流されてはいけない。そう心に誓っている

 そもそも結婚ってしないといけないものじゃない。私はいつからか、純粋に口から出る「したい」じゃなくて「しないといけない」に変換されていた。年々増えていく結婚式の招待状。そして兄が結婚してからの親類の次は、という視線。友人たちと会う度に交わされるどこの誰が結婚したか情報。やっぱり結婚しなくてもいい時代といっても歳を重ねれば、結婚していく人が多いのは紛れもない事実だ。ただそれに流されてはいけない。
私は人生を共にしたい人がいて初めて、結婚したいのだ。結婚しなければならないから、そのとき隣にいる人とするのではない。結婚しない選択、結婚する選択。自分が心から選び取った決断であれば何だって、胸を張って自分の人生ど真ん中を歩いているのだ。

 これから三十代にかけて、きっと私はこれから何度も焦りという波に揉まれるだろう。他人と比べない強さが欲しいけど、そんな強い人間ではない。ただ、流されるような弱い人間でもない。迷うことがあっても自分の声を聴けば流されることはない。
 もしかしたら結婚したいと思う人に出会うのは何十年も先かもしれないし明日かもしれない、はたまたもう出会っているのかもしれない。