「ボディポジティブ」という言葉がある。ありのままの自分の身体を愛し、そのままが素敵なのだと肯定することで、ムーブメントにもなった。
プラスサイズモデルなどが起用され、画一的な美からの脱却を目指す、とされた。
私は見た目で苦労した経験から、「ボディポジティブ」がかんたんに言えるほど一般化できる問題ではないと断言する。

火傷の傷跡のことは話せない。うまく「忘れているふり」を心がける

私の腕や胸には、小さい時に火傷したときの傷跡が、今でも凹凸と広く残っている。
「私はまわりは違うのだ」と思い知らされたし、どう努力してもきれいな身体にはなれないことを自覚していた。

幼稚園の頃「歌手になりたい」と言うと、クラスの子から「火傷のあとがあるからなれないね」と言われた。
きれいになればと受けた治療は痛くて、泣いたら親も泣いた。
外科医は「今ある機能に感謝しましょう」と言い、他の医師は「顔はかわいいのにかわいそう」と言った。

こういう経験から、いつしか「火傷のことは口にしてはいけない」「恥ずかしい」「隠すべき」と自分の中で解釈していた。
なるべく普段は忘れているように心がけたし、そのせいで卑屈になったりすることもなくそうとした。
両親には一番話したくないし、友達に話すのは惨めで、誰にも長い間話せなかった。
小さい時ほど適応しやすいから、私もうまく「忘れているふり」ができていたみたいだった。

「人は見た目より中身」という考え方が、私をがんじがらめにする

私にいっそう「忘れていないと」と強く思わせたのは、「見た目について悩むのは、人間の本質的な部分ではないから、くだらない。人は見た目より中身」「神は耐えられない試練を与えない」というよくある考え方だった。
ボディポジティブが現れる前から、ずっとこうした考え方にならないと、と囚われていた。
そこに「ボディポジティブがいいよね」という言葉が加わって、さらにがんじがらめにされたのだった。

「人は見た目より中身」なのであれば、見た目をよくするために整形する人はいないはずだ。容姿イジリもないはずだ。
「乗り越えられない試練はない」なら、追い詰められて自死した人は、見捨てられた人だとでもいうのか。それなら、もともと神なんていない方がいい。
「ボディポジティブ」は、一見私のような人間に優しく「そのままでいい」と言ってくれている。しかし、傷のある身体の人の例は少なく、私はそこからも排除された気分だった。ボディポジティブになるためにも、一定の資格がいるように感じた。
運良くボディポジティブになれたある人が、たまたま心地よく生きられるようになったというサンプルにすぎないし、それがすべてではないのだが、自分にとっては随分強いアピールに感じた。「ボディポジティブにならないんですか?」と言われているような、強いメッセージに思えた。輝いている人たちは余計に眩しく、ネガティブな自分は格好悪いのだ、と思っていた。

そうして私は、比較的自分で思い通りにしやすい「体重」に固執するようになり、摂食障害になった。
がんばっただけ理想の体重に近づける気がしたし、痩せることについては気軽に話ができるので、やめられなくなった。
結局は、どうにか「普通の美しさ」を備えた見た目になりたくてあがいていたのだと思う。

自分を見下していたことに気がつき、無理してポジティブにならなくていいんだと整理

それからずっと後になって、自分の痛みにきちんと向き合ってこなかったんだ、と気づいた。いつも見ないようにしてきた。
自分の見た目について、「見た目より中身」「機能には問題がないから」と自分が一番軽んじていた。
ポジティブになれない気持ちを、誰よりも自分自身が見下していた。
そして、そのことについて、長い間気づいていなかった。
気づいてから、無理してポジティブにならなくていいと、しっかり自分の中で納得したいと思った。

誰かに話すのは気が引けたので、今までを振り返って、何を考えてきたか整理することにした。
思ったことは書き出した。書いていく中で、だんだん「あんまり他の人にはない経験かもな」と捉え直し、自分の希少性が高まる気がしてきた。自分がポジティブにならなくても、誰かに寄り添える気持ちを持っていたいと結論づけた。

「怪我したの?」とストレートに聞いてきた上司に驚いた。そしてほかにも…

この作業をしているうちに、驚いたことがあった。
異動したばかりの職場で、上司と面談することになった。
上司は面談の最後に、私の首元を見たのか「それは怪我したの?大変だったんじゃない」と言った。
そんなふうに普段の生活でストレートに言われたのは初めてだった。上司は「昔付き合っていた人が同じような感じだった。海に行くときとか着るものを選ぶのが大変そうだった」と続けた。私は「今までそんなに率直に言われたこと、ありませんでした。単純に驚きました」と言うのが精一杯だった。

嫌な気分にはならなかった。普通の人はタブーにしてしまうことをさり気なく話題にできる人もいて、しかも無理している感じが全くなかったからだ。
異動したばかりで不安だったが、心を許せるように感じた。

自分の気持ちに向き合い始めたことで、これまでと違った認識を持てるようになってきた。そしたら人からも、これまでと違った言葉をかけてもらえた。おそらく、今までより「触れないで」という雰囲気が出なくなったのだろう。

自分のタイミングでいい。ポジティブさをひけらかしたりしなくていい。ポジティブになれない気持ちを否定しなくていい。
私は受け入れられない気持ちに、痛みに、そっと寄り添う人になる。