20代半ば。子どものころに思っていた「大人」とは程遠い
「子どものころ思っていた28歳って、もっと大人だったんだけどなぁ」
20代半ばを過ぎたころから毎年、誕生日のたびに繰り返し思っていることだ。
小さいころに思っていた20代半ばというのは、既に収入を得る手段を確立して、欲しいものは自分でだいたい何でも買えるくらい経済的に自立していて、かつ思い立ったら一人で旅行を楽しんだりしつつ、自分の機嫌は自分でとれるように精神的にも自立しているような「大人」で、そういう「大人」に時が来れば自分も自然となれているものだ、と思っていた。
だけれど実際は、仕事はまだまだ分からないことだらけだし、上司にはしょっちゅう怒られる。欲しいものはたいてい自分で買えるけど家賃や光熱費なんかの支払いで毎月カツカツで、子どものころ思い描いていた「経済的自立」という言葉に漂う余裕からは何となく遠い。
一人旅は不安や寂しさが勝って楽しみ切れないし、できるだけ自分で自分の機嫌は取るよう努力してはいるものの、不機嫌が漏れていることも少なくない気がするので、精神的にも自立できている自信もない。
つまり、傍目に見てどうかはわからないけれど、自分で自分を観察する分には全然思っていた大人になれていない。
自分の親とほぼ同年代の人も、同じことを思っているなんて
あるとき、会社の50代半ばの上司とランチに出る道で一緒になった。
上司は「俺、今日誕生日なんだよね。結構いい歳になったはずなのに、まだまだちゃらいなあ!」と言った。
「ちゃらい」という言葉に、ご家庭円満エピソードを酒席でも聞いたことのある上司の浮気話でも、唐突に、しかも白昼堂々告白されようとしているのかと若干身構えつつ、「ちゃらいってどういうことですか?」と聞き返した。
「いやぁ、昔思ってた50代半ばってもっとどっしり構えててさ、ちゃんとしてるもんだって思ってたけど、全然、そんなことないもんなのよ」
50代になっても今の私と完全に同じことを思っているのか!と驚いたと同時に、きっと一生、いくつになっても「思っていたほど大人になれていないなあ」と思い続けるんだろうな、とそのとき思った。
その上司には大学生のお子さんがいるとのことで、上司よりもそのお子さんのほうが私と年齢はずっと近い。ということは、考えてみると上司は自分の親とほぼ同年代ということになる。
年齢の数字をみれば当たり前の事実だけれど、「親」は生まれた時から絶対的に「親」であって、対して上司は会社の年の近い先輩を含んだ関係性の中で、自分と並列な立場から連続した個人として捉えていたので、この、「親」と、自分と地続きのところにいる個人である「上司」が同年代ということの「気づき」は、当たり前ながらも確実な驚きを私に与えた。
誰だって、不完全さを抱えながら懸命に生きているのだろう
親は子どものころ絶対的な存在で、「完璧な大人」だと思っていた。
だからこそ彼らの、今振り返ってみれば大人気ない発言に触れた時にはいちいち傷ついて憤慨したし、いまだに親からの、身内だからこそ発することができる他人には言わないような無遠慮な発言には、時に他人からぶつけられる嫌味だったり意地悪なコメントよりも深く傷ついたりする。
だけど、子どものころから思えば「いい大人」なはずの年齢になっている自分は、まだまだ、子どもだった自分の延長線上にいて、大人になりきれた実感はないし、きっと何歳になっても同じように「大人になりきれていない」と感じ続けるのだろう。
それはきっと親も同じで、彼らも「完璧な大人」なんかにはずっとなれなくて、彼らの子ども時代の延長線上にいる不完全な人間のまま、時にはいろんな状況や感情や言葉を制御しきれずに、それでも頑張って生きているのだろう。
「大人」になるということは、「親」や「先生」のように人生の一時期において絶対的に感じた人も、どんなに社会的地位がある人も、誰もが不完全さを抱えながら、それでも一生懸命生きているということを受け止めることなのではないだろうか。
そう思えた自分は、一歩「大人」に近づいたのではないかと思いたい。