深いマリッジブルーだった。
23歳。入籍することになり、婚姻届を手元に用意した辺りで、私はナーバスになった。ふとした瞬間に涙が出る。
結婚して自分の苗字がなくなることに、強い喪失感を持ち始めた
私と夫となる予定の人との話し合いにより、我々の苗字は私が変えることに決まっていた。
結婚したら女の人は苗字を変えるんだよ、と教えられて育ったから、抵抗なくそうするつもりでいた。
しかし、生まれてこのかた使い続けた、私を表す記号として染み付いた名前が変わることは、いざ実感してみると随分な大ごとだった。
当時、彼と同棲をして2人暮らしをしていた。大抵、私の方が仕事から早く帰る。
ぽつねんとひとり、ひんやりしたソファに座ると煩雑な色々が脳裏を過ぎる。
名前が変わったら。住民票を発行して、銀行に運転免許証、マイナンバーカード、その他各種契約の手続きをしなければ。結婚式を後で挙げる予定だから、入籍の連絡だけ先にしないと。職場にも報告、書類を新しい名前で提出だ。
今までの苗字を消していく。これまで生きてきた自分も、一緒に消えるような心地になった。私の名前という固有名詞と自己の存在。このふたつを同一視していたから。
ソファから動くことができず、ぽろぽろ落ちる涙。マリッジブルーだな、と頭の中の理性的な部分が断じるが、どうすれば気分が戻るのか見当もつかない。毎日のように落ち込み続けた。
誰かに相談したところで解決するものでもない。これから起こる変化に、私が適応すればいいだけの話なのだから。自分の殻に閉じこもり、恐怖といって差し支えない感情に押しつぶされそうになっていた。
婚姻届のために戻った実家。父と晩酌しながら、私は泣き始めてしまった
心が安定しないまま、入籍する直前に実家へ泊まった。父に婚姻届の証人欄を記入してもらうという用事があったのだ。
つつがなく書き込まれ、押印された婚姻届。いつもの右肩上がりな私の字。丁寧に書こうと努力の跡が見て取れる彼の字。初めて見る彼の父の字。見慣れ親しんだ父の字。皆がこの結婚を肯定している。
その晩、父とふたりで晩酌をした。ワインを飲んで、日本酒を飲んで。
父は久しぶりの娘との晩酌にテンションが上がっているのか、次々にお酒を注ぐ。あっさりと酔っ払いになった私は、理性で抑えていたマリッジブルーを存分に爆発させた。
急にめそめそと泣き始めた私に、父は驚いたようだった。さっとティッシュを箱ごと手渡してくれた優しさに、更に涙が出た。
嗚咽混じりに途切れ途切れ、結婚は楽しみだけど悲しいしやだ、と訴えた。
涙を止めることができない私。本当に欲しかった言葉を、父はかけてくれた
何が悲しいの?
どうすれば良くなるかな?
父は、こういったことを一切言わなかった。私が話し終わるまで待ち、ちょっとの沈黙の後、泣かないでよ、と困ったように言った。
とても心配されている。でも、涙を止めることができない。さんざん悩んで落ち込んだ精神が、優しい父に甘えたくて、助けてもらいたくてしょうがなかった。
色々な言葉をかけてもらった。
結婚を周りの人、皆が楽しみにしているよ。彼は良い人だよ。心配することなんてないよ。
そうなんだけど、ともだもだと泣き続ける私。ひとり自宅でソファに座り、沈み続けた心はなかなか浮上しない。
ややあって、父は言った。
結婚しても、何も変わらない。これからも親子。ひとつも、何も変わらない。
何も変わらない。欲しかったのはその一言だった。
表す名前が変わっても、私自身は何も変わらない。もちろん私を取り巻く関係性も。信頼する父に断言され、ようやっと、張り詰めていた心が少し緩んだように感じた。
相変わらず鼻を啜るが少し落ち着いた様子の私に、もう寝なさい、と父が促した。子供じみた声で、寝る、と頷いて、小高い山の様相を呈している丸めたティッシュをごみ箱へ。
深海の如く暗い冷たい気持ちもついでに捨てて、翌朝起きたらもう、大丈夫だった。