私は母親に対して謝りたい気持ちでいっぱいだ。
時は数カ月前に戻る。私はその日の言葉を今でも後悔している。

いつも母の機嫌をうかがう子どもだった

母は、私が子どものころから面白く優しく、そして強い人だった。私はいつも母のうしろをついてまわり、母が私の言動に注目してくれるのを心待ちにしていた。当時の私にとってそれは当たり前のことだったのだが、今思えば、強く自分自身を貫く母に対して「ついていかなくてはいけない」という強迫観念を抱いてしまっていたのだろう。母が笑えば、私も嬉しい。いつしか私は母に嫌われるのではないかという不安から、知らず知らずに機嫌をうかがう子どもになっていた。

私が中学生にあがるころ、周囲の同年代の子どもたちは親に対する悪口や不満を言うようになってきていた。いわゆる反抗期というやつだ。なかには親に対して直接攻撃的な言葉を投げかける子どももいたが、そんなことをしたら親に嫌われるじゃないか、と、心の中で反抗期を否定しながら育った。

時は流れ、私は勉学を中心に学校生活を送る子どもになっていた。端から見れば普通の学生だっただろうと思う。しかしながら、心の中のもやもやが日に日に大きくなっているのを自覚していた。大人になっていく私は、自分の実家は食べるものに困らないとはいえ、そこまで裕福ではないのだということを理解していた。選んだのは大学進学ではなく就職という道。モラトリアムに対する嫉妬心と劣等感を抱えたまま、私は社会人になったのだ。

気がつくと、私は母に対し「くそばばあ」と叫んでいた

社会人生活を送るうち、私は次第に心を病んでいった。私は仕事を辞め、やっとのことで親を説得してスタートした一人暮らしすらやめることになってしまった。このあたりから、私は自尊心と親からの愛情との狭間で悲鳴を上げ始めることとなる。

あれほど母にべったりだった私がとうとう爆発したのは、初めに書いた通り数カ月前のこと。その日私は、夫とのいさかいによって機嫌を損ね、実家に戻っていた。母なら慰めてくれる、母なら抱きしめてくれる、そういった私の中の「絶対的に強く優しい母親像」を求めたのだ。しかし、母の口から出た言葉は思いがけないものだった。「そんな男なら別れてしまえばいい」。

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが切れる音がした。漫画やアニメなどでは、人が大いに怒る際「プツン」や「プチン」という効果音があらわれがちだが、まさにそんな音だった。気がつくと、私は母に対し「くそばばあ」と叫んでいた。母は私の頬をはたいた。目の前が黄色に染まり、ちかちかと光りながら頬のひりつきと同化していった。そこから、母が涙しながら叫びだしたのを覚えている。その内容は、私が「扱いがよくわからない人間」だったという主旨のものだった。母の愛情を疑い、私は部屋中の家具をなぎ倒した。母はそれを悲しそうな、それでいて憎悪をはらんだ目で見ていた。私はたまらずに家を飛び出し、自分の行動を恥じた。

どこから母に謝ればいいのかわからない

時間が流れ、私の病気は悪化。母は父とともに私をなだめに来ることが増えた。泣きながら取り乱す私を、母はいつも泣きそうな顔で見ていた。そんな状態に陥ってから気づいたのだ。母は「強い人間」などではないということを。母は私と同様に不安定で、だからこそ子どもである私の前で「強くありたい」と思い、我慢を重ねてきた人間だったのだと。

私は今でもまだ、母に謝れていない。どこから謝ればいいのかわからないのだ。子どものころの失敗、ちょっとしたいさかい、そして先日の大きな衝突。すべてが申し訳なく思えて、適切な言葉が見つからない。

母は最近、私が実家に遊びに行くといつものように笑ってくれるようになってきている。しかしどこか、お互いに距離をはかっているように感じる。それはもしかしたら、どこの家庭でも当たり前のことなのかもしれない。私は立ち直れていないし、母もきっとそうだ。楔のように深く打ち込まれた暴言による傷は、そう簡単に癒えるものではないのだ。それでも受け入れてくれようと必死に背筋を伸ばし続けるか弱い母に、私はいつか謝りたい。そのときは必ず、ありがとうという言葉とともに。