他人とは違う時間の流れを経験。実年齢と雰囲気がかみ合わない原因かも

現在27歳、夏には28歳になる。パーツが中心寄りの丸顔、化粧はよく言えば直感頼み、悪く言えば曖昧で適当に仕上げる。服装もジャージからギャル系までまちまちだ。
老け顔の院生か若見えの30代か、初対面の人がぎりぎりまで迷っているのを見るのはちょっと愉快なものを感じる。さすがにレジで年齢確認はされなくなって久しいけれど。

実年齢と雰囲気がかみ合わない原因は、時間の流れ方が他の人と違うせいだろうか。
高校1年生で不登校になり、3年生の秋に高卒認定を取得して中退した。1年の宅浪の後に、大学に入学。3年生でうつ病を発症して、1年半休学した。
結局大学を卒業できたのは25歳と、遅咲きの新卒だった。

なんとなく、休んでいた期間は時間が止まっていたような錯覚がある。実質、23年分くらいしか活動している実感がない。
同級生は皆、この5年の差でキャリアを積み上げ、家庭を築いている。全く焦らないかと言えば、嘘になる。自分は結局大人なのか、子どもなのか。ポチ袋を二つ、握らされて帰った1月ももう終わりである。

23歳で復学し、周囲は20歳。私は子どもの世話を焼く大人の役になった

周囲の精神や身体の年齢が自分より若い場合、人はどう行動するのか。
復学当時は23歳だった。周りは20歳が多い。特に私たちのような90年代半ばの生まれは、ちょうどガラケーからスマホへコミュニケーションの在り方が切り替わる最中の世代だった。高校入学前からラインで友達を作り、インスタグラムへクラスマッチの自撮りをアップロードしている子たちとは、カルチャーギャップが生じることが多々あるのだ。

入学して早5年。学生のタイプもインテリが減り、量産型が増えてきていた。入学当初に本物のインテリに出会い、衝撃を受けた身としては何とも歯がゆいというか、取り残された気分になったのを覚えている。
周りより長くいる者、あの混沌のるつぼともいうべき時代の文学部を知っている生き残りのプライドが、子どもの世話を焼く大人の役を私にさせたのだと思う。
こんな奴らがかつてこの学部を引っ張っていたのだと、周りに発破をかけるように前のめりに臨んだ。記憶の中の奇才たちを追うように。

あるべき姿が定まったせいか、不思議と心に余裕もできた。うつ病持ちとは言え、週末にイベントのバイトで根っからの関西人とやりあったことで度胸も付いた。向いていないながらもサービス業で1年頑張れたのは多分そのおかげである。
年下の同級生たちも徐々に頼ってくれるようになった。一番大人っぽい行動を取っていたのは現時点ではこの2年間だったように思う。

若い人たちにどういう姿を見せるか意識したとき、大人になった

色々な人のエッセイや実録漫画を拝見する限り、環境が人を大人にする例は多数見受けられる。それとは別に、どういう人でありたいかという目標が定まった時に、人は大人になるんじゃなかろうか。

なんとか大学だけは卒業してくれと親に泣かれて(最終的には体調と意欲が戻ったというのが復学を決めた理由だけれど)、キャンパスへ戻ったすねかじりは、経済的に自立できていないという点では大人ではなかったかもしれない。
ただ、教室のドアを開けた瞬間から、どんなことを伝えたいか、どんな姿を見せたいか。自分より若い人たちに、何を見て取ってもらいたいのか。子どもだったらそんなことは意識しないと思う。

結局は、自分の生き方を子どもたちに見せることに、意義を見出せるか。負け組なら負け組なりに、意義を見出せるようなものを確立できているか。
大人と子どもの系譜は、大人の背中を子どもが追いかけ、その子どもがまた後ろに続く者に自分の背中を見せることで、連綿と続いていく。お年玉を渡す側に回れるのはいつになるやら。
今度はどんな人になりたいか、大人の葛藤は春を待たずして道端から芽を出している。