学生の頃は、いつか大人になることが楽しみだった。
大人になれば、偶然に同じ年に近い場所で生まれた人たちで形成されている、この煩わしい世界から解放されて、好きな事ができるのだと、根拠もなく信じていた。
経験していた当時の「子供」という言葉にはそういう不自由だけが目立って、まだ見ぬ「大人」という言葉はただただ憧れだけで輝いていた。
でも、「大人になれば」という言葉はいつまで唱えられるのだろう。明確に子供だったと言えるのはいつまでだったのだろう。過ぎた時間のどこかにその分岐点があったのだろうか?
振り返っても、そんな瞬間には心あたりがない。でも、私は確かに大人になったと思う。あの時に、思い描いた大人になったのかは分からないけど。

今でも憧れは、もう年を追い越してしまった教育実習生の彼ら

学校に行って部活動に参加して、そんな毎日を繰り返していた頃の私にとって一番の憧れの大人というのは、年に一度、数週間だけ学校に来る教育実習生の存在だった。
友人とカラオケに行ってはアイドルやアニメーションの歌を熱唱し、ファミレスでドリンクバーを片手にいろんな話をした。そんな時間を過ごす中で、自分の選んだ場所で素敵な生活をしているのだろう実習生の先輩たちは、私の人生の中で初めて憧れの大人として登場した。
友人や部活動の悩みも真剣に話したし、大学がどんなに素敵な場所かたくさん教えてくれた。子供だった時もあるのだろうけど、反対にそんな時間の存在を疑うくらいに大人で、私もいつかそうなれるのだと、疑いもしなかった。

でも、その「いつか」は訪れる日が来ないまま、大人と呼ばれる年齢になってしまった。
受験に大学生活、就活その先の社会人生活。どれも順番にこなしてきた実感が確かにあるのに、その時間を疑うくらい私の中身は子供のままだ。
今でも憧れは、もう年を追い越してしまった彼らだし、当時の友人と会えばカラオケにファミレス。あの頃にはなかったインスタ映えのおしゃれなカフェは居心地が悪い。
そんな私でも、そんなオシャレなカフェを使う時がある。大人として社会人として子供の私ではいられない時、私はそんな場所を使う。そして、そんなときの私は友人との時のような居心地の悪さに蓋をする。中身は子供のままだと知りながら、大人の顔をする。

彼らもきっと、子供の自分を抱えたまま蓋をして、大人の顔をしていた

もしかしたら、憧れた彼らもそうだったのかもしれない。
子供のままの自分を抱えたまま、そんな子供の自分に蓋をして大人の顔をしていた。でも、大人として私の人生に現れたから、私には彼らの子供の顔も含めて大人に見えていたのかも。

でも、私には彼らのそんな子供の一面も含めて大人で、憧れだった。これが出来たらとかこういう状況になったらとか、そんな条件で子供のままの私を全部捨てて、一瞬で大人に変身出来たりはしない。そんな魔法は存在しない。それが分かっただけでも、大人になったのかもしれない。
子供のままの私がいても、いつの間にか憧れだった彼らの年を追い越してしまった。キラキラした憧れだけではなく、いつか自分の過ごした時間の記憶を彼らにも重ねるようになる。そんな風に、大人の私が増えていく。

子どもの頃、大人との距離は遠かった。すぐに大人になる事は求められていなくて、漠然とした大人への憧れを抱いたまま、子どもという時間を過ごしていた。いつか大人になって、今の悩み事は全部解決するのだと、期待に胸を膨らませていた。
そんな期待を描いたまま、描いてすらいなかった子供と大人の狭間みたいな時間を過ごして、大人という一面も使い分けるようになった。子供の記憶も感性も抱えたまま、あの頃出会った憧れの大人との距離はずっと縮まらない。それでも、小さな誰かの憧れになれるように私の憧れを追い続けたい。