社会人の友人たちはみな、きれいにネイルをしている。神は細部に宿るというから、手の指先まで気を抜かない彼女たちはきっと、他の部分にも全体にも気を遣っているのだろう。プロポーションしかり、ヘアメイクしかり、脱毛しかり、エステしかり。

素敵だと思う。でも私はネイルをしない。それにはいくつか理由がある。

ネイルの綺麗な手よりも、私が憧れるのは祖母の「魔法の手」だった

まず、一つには似合わないこと。
67キロという堂々たる体躯の私は指まで太っている。指輪は当然13号だし、手を握れば形といい色といい、クリームをケチった小さなクリームパンのようなのだ。こんな手が指先だけお洒落でもこっけいだよなあ、という若干の卑屈さ故である。

そしてがさつなこと。
高校生の時に一度だけ、ネイル学校の生徒さんに、無料でネイルしてもらったことがある。ピカピカと赤く光る指先。キレイ。が、その日の部活のサッカー練習を終え、家に帰り食後の皿洗いをすると、すでに7割剥げていた。
がさつな性格と生活が爪に表れ、「あんたにゃ、1回5,000円のネイルは勿体ないよ」と禿げた赤のマニキュアが雄弁に語っていた。

そして最後に。そもそもネイルに憧れがないのだ。
丁寧に生活していることが分かるネイルのきれいな手よりも、私には憧れの手があるからだ。それは祖母の手、だ。

祖母の手は魔法の手だった。
夫である祖父、4人の子どもとそのパートナー、そして12人の孫……。お盆やお正月に親戚が一堂に会すると、それはもうものすごいにぎやかさ、うるささ、騒がしさ。
22人分の胃袋を満たすため、台所は戦場だった。祖母はその台風の目の中で、忙しそうにそしてどこか満足げに、次から次へと魔法のようなスピードでご飯を作り出していった。

たくさんの苦労と愛。祖母の人生が刻まれた手は、柔らかくて温かい

八百屋の長女として生まれ、豆腐屋を開業した祖父と結婚し、4人の子どもを育て上げながら店を広げていった。昭和ひとケタ生まれのそんな働き者の祖母の手は、シワがたくさん入りしわくちゃで、節くれだって少しガサガサしていたが、同時に柔らかくて温かかった。
手をつなぐと私の小さな手を包んでくれるようだった。手をつなぎにかっと笑いかけられると、不思議と安らかな気分になり、なんでもできる気がした。たくさんの苦労とそして愛、祖母の手には祖母の人生が刻まれていた。

そんな祖母は72歳の時に倒れた。脳梗塞、左半身不随で寝たきりとなった。言語障害が残り、おしゃべり好きだった祖母はうまく話すことができなくなった。

ああ、大好きだったがんもの煮つけやおやきのレシピを聞いておくんだった。
ああ、もっと昔話を聞いておくんだった。
今感謝を伝えても、それが届いているかは分からない。もっとありがとうって言っておくんだった。

そんな後悔を胸に、8年間の祖母の老人ホーム生活の間、何度お見舞いを行ったことだろう。医療関係者である母から、動かなくなった手足に保湿クリームを塗りこんでマッサージをするといい、とアドバイスされ、お見舞いに行く度の恒例となった。

動けなくなり、どんどん痩せていってしまった祖母の手を、クリームを塗りマッサージをすると、手はほんのりと温かく、弱い力ではあるが必ず握り返してくれた。言葉を発することは難しいようだったが、「よく来てくれたね、嬉しいよ、また来てね」と祖母の目は口ほどに物を言った。

冷たさしか感じられない祖母の手。私も、人生が刻まれる手になりたい

訃報が届いたのは、12月が始まったばかりの寒い日だった。祖母は8年間も病と闘ってくれた。急いで家に行くと、リビングに祖母が寝かされていた。
手に触れると冷たさしか感じない。その冷ややかな感触に、もう二度と握り返してはくれないのだ、と涙が止まらなかった。

「もし今あなたに会えるなら」、ばあば、あなたに会いたい。
がんもどきの煮つけも豆乳とごはんのおやきも、作り方を聞いても「てきとうだよ」といって何にも教えてくれなかったね。今度会ったときは、私しつこく最後まで見て作り方盗んでやるんだから。

またオセロやりたいな。子どもだったから勝ちを譲ってくれたのか、それとも単純にばあばが弱かったのか、知りたいんだ。

そして、最後に、多分ばあばと同じくらい大きくなった私の手を見てほしいの。私の手、ばあばみたいに生き様刻まれているかな?美魔女って呼ばれる人のようなシワ一つないきれいな手よりも、ばあばのしわくちゃの手の方が好きだし、私もそんな手になりたい。人生が、手に刻まれるような、そんな生き方をしたい。

そんなことを伝えたら「平成ひとケタ生まれ、まだまだ先は長いわよ」と、にかっと笑われるかもしれないけれど。